水口岡山城の最終回です。

 秀吉が自ら築城を決め、自ら育てた子飼いの武将達に守らせた城です。

彼らの成長を見守る秀吉の気持ちになって、タイトルは秀吉の話し言葉風にしています。

 

最期は主郭の東側を巡ります

 

 

 文禄4年(1595)、増田長盛が大和郡山20万石に移封になると、新たに水口岡山城へ入って来たのは五奉行のひとり長束正家でした。

 正家は近江の栗太郡長束村(現:草津市)の出身で、丹羽長秀に仕えて丹羽家の経理一切を仕切っていましたが、その手腕を見抜いた秀吉が強引に引き抜いて直臣としました。

 

 豊臣政権では九州征伐や北条征伐の兵站を担い、朝鮮出兵の際にもやはり裏方として機能しています。

 職務が石田三成と重なる部分が多いので、秀吉の中では三成を宿老的な地位に上げた後の、その後継に正家を考えていたフシが感じられますが、この人こそ武将というより“生え抜きの官僚”という気がしますね。

 

また本丸下の帯曲輪に下りて、北側に廻り込んで見ると、土塁がせり出した喰い違い虎口がありました

 

その上は高石垣になっており、侵入した敵を足止めして、上から狙い撃つ算段ですね

 

また南側に戻って、二ノ丸に向かいます。 本丸との間には広い堀があり、空堀と明示されていますが、地形からして泥湿な水堀だって事でしょう。

 

映画『のぼうの城』より 長束正家(演:平岳大さん)

虎の威を借る悪ガキ風の脚本でしたが、三谷さんは優秀な財務官僚の資質とは…を見誤っていますね(^^;

 

 

 正家を水口岡山城にという必然性ですが、既に国内に争いの火種は無く、畿内は尚更の事で、この城の役割も変わっています。

武将としての器量というより、伏見常駐の奉行の利便性が考慮され、出身国という統治上のアドバンテージが付加されての選定だったのでしょう。

 

 2年後の慶長2年、大きな事変があった訳でもないこの年に、正家には7万石加増の計12万石という沙汰が為されます。

試用期間が終わって、“豊臣の財務は正家に任す”という意思決定にも思えますが、それだけ行政官として優れた、石高に価する第一人者だったのでしょうね。

 

帯曲輪が東に延び、北側に二ノ丸、三ノ丸が連郭で連なります

 

二ノ丸は城内最大の平坦な郭ですが、築城当初も城主の居館はここではなかった様です。秀吉が投宿する際の御殿だったか?

 

二ノ丸から三ノ丸へは堀切で隔てられ、土橋は無い様です。 近年まで橋が有った様ですが、連郭を機能させる為に当時も橋で繋がっていたのかな?

 

 

 秀吉死後の“関ヶ原”においては、三成に引っ張られる形で西軍に与しますが、合戦が得手ではない正家にさほどの活躍は期待できません。

豊臣を守る奉行の立場と“家康への風”との板挟みで、戦時での行動は終始中途半端で、本戦では南宮山の毛利勢の後方に布陣したものの、吉川広家に阻止されて戦闘へ参加する事は叶わず、敗報を受けて水口に撤退し、岡山城に籠城しました。

 

 東軍の追討軍は池田長吉と亀井玆矩の隊で、城を囲んだ両隊は計略を用い、家康殿は直接交戦のない正家殿を赦す御意向である、早々に開城されよ!

と呼び掛けました。

 これを真に受けてしまった正家らが城を出ると、長吉はすぐに捕縛し、弟:直吉、重臣6名とともに即日処刑(切腹)してしまいました。

享年39歳でした。

 

堀切の現況 木橋の存在を裏付ける土塁の切り欠きや支柱の礎石を探したくても、これでは…ね(^^;

 

三ノ丸は城主居館と言われます。 おそらく中村一氏は此処に住んでいたでしょう。 麓に居館を移したのは土木スペシャリストの増田長盛と想定されます。

 

三ノ丸虎口は階段→門→階段の三段階式で、埋門が使われています。凝っていますね。

 

城山の下を通り抜ける東海道

上杉征伐の準備で江戸に向かう家康の一行は、この城で一泊する予定でしたが、長束正家の襲撃計画を察知して、夜陰に紛れて一気に駆け抜けました *司馬遼太郎『関ヶ原』より

 

 

 池田長吉ら追討軍には、正家の家財・宝物は恩賞に与える旨の通達が家康からなされており、開城後の水口は城内、城下を問わず、東軍兵卒による手当り次第の略奪行為で阿鼻叫喚の坩堝と化してしまいました。

 戦場からの高揚が収まらない兵士達は、略奪の次は婦女子への暴行へと奔り、遂には正家の正室:栄子も池田家の兵の犠牲となり、凌辱後には遺棄されて死んでしまいました。

 

 ところが、この栄子は泣く子も黙る本多平八郎忠勝の妹である事が知れ渡ると、みな騒然となってしまいます。

例えれば、一番勢力の有るマフィアのドンの妹みたいなもんですから、真っ青になった池田長吉は兄の輝政に相談して、早急の証拠隠滅とアリバイ工作』する事に決したそうです。

多家には奥方は正家殿に殉じられました。 ご立派な最期でした…』などと伝えたんでしょうか。

 

三ノ丸の東には、30mほど下がって広い郭があります 重臣屋敷跡か?

 

東の遠望は鈴鹿峠の方面 とにかく東を意識した縄張りの城です

 

 

 この後、水口岡山城は池田長吉の預かりとなりましたが、日を置かずして廃城とされ、城割されたと言います。

 しかし、寛永11(1634)に水口に水口城(将軍上洛時の宿泊御殿)が造営された際には、水口岡山城の資材が大量に転用されたとも言われます。

34年もの時差があるこの点は、次回に少し検証してみます。

 

水口岡山城 おわり

 

 

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