天正18年(1590)の北条征伐が終わり、徳川家康の関東移封で中村一氏が駿府に移ると、水口岡山城には増田長盛が入って来ました。

 

本丸と西側の曲輪群を見て行きます

 

 増田長盛といえば、五奉行の一人として名が知られていますが、真面目が取り柄な文官で、政治の駆け引きや戦場での合戦では役に立たないイメージがありますよね?

ところがこの男、良く調べて見ると実は戦場での斬り合いで頭角を現した人なんです。

 小牧長久手の戦いと、紀州攻めでは兜首を幾つも上げて、その働きだけで2万石を給されたそうですから、もう七本槍も真っ青な“荒武者”と言って良い武将ですね(^^;。 

 

本丸東端には三層天守が建っていたと伝わります

 

そういえば、礎石っぽい石の列が見られます

 

生憎の薄曇りですが、此処からは北東方面の遠望が効き、左側に日野、右奥には綿向山(1110m)が見えています

 

天守台脇に池状の穴ボコが2つありますが、雨水でも貯めてたんでしょうか?

 

 

 さらに行政官としても、鳥取攻めで陣中物商奉行を務めたのを皮切りに、上杉景勝との外交交渉(臣従)を成立させ、北条征伐では里見氏との折衝役を務め、それらの行政手腕をも認められた上での甲賀水口6万石だった訳です。

『戦える石田三成』あるいは『賢い福島正則』=中村一氏の後任に十分足り得る人物という秀吉の評価ですね。

 

次に本丸西側を見ますが、こちらは壇上の削平が曖昧です

 

西側最高所にも櫓建物があった様で、どちらが天守だったかは不明です 誰に見せるか?ですけどね。

 

此処からは城下の様子がよく見えます。 中央にこの城を城割りした資材で造った江戸期の水口城址(平城)が見えます。

 

 

 水口に移ってからの長盛は、秀吉の傍近くに居て、主に各国の検地と公共土木工事、そして伏見城(木幡城)築城などに携わっています。

 文禄元年(1592)からの文禄の役には宇喜多秀家(総大将)の七番隊に3千の兵で加わり、漢城に駐留して占領地統治を担当しました。

つまり、水口岡山城主としての5年間は、政権の中枢を担う行政官として、中央と地方を飛び回っていた事が判ります。

 秀吉の側近として“木綿右衛門” になっていた様で、伏見における長盛の屋敷は城下ではなく、城内本丸下の大手口(明治天皇陵参拝の広場がそう)与えられています。

おそらく、領地の甲賀の民衆にとっては、“まったく顔の見えない殿様”だった事でしょうね。

 

本丸を西に下りて行くと、一条の空堀を挟んで西ノ丸があります

 

空堀は北側斜面に向けて長大な竪堀になっています。 この時期の城の竪堀は竪土塁を伴った見事なものが多いのですが、これでは…

 

西ノ丸は土塀と物見櫓風の建物があり、子供向けの学習広場になっていましたが…

 

『ここからこうやって弓で…』と実演しようとしても、屋根が邪魔で再現できないでしょう?

 

『これが狭間というんだよ、覗いてごらん…』 ???サマになりませんね(^^;

 

 

 文禄4年(1595)、豊臣秀長を継いだ養子の秀保が死ぬと、大和郡山の大納言家は廃絶となってしまいます。

秀吉は遺領のうち20万石を割いて長盛に与え、大和郡山へと移封させました。

 残りの100万石は豊臣家の蔵入地(直轄領)としましたが、大納言家の主要な家臣は長盛が召し抱えた為、蔵入地の管理も長盛に託しました。

サラリと書きましたがこれは凄い事で、増田長盛はその気になれば毛利輝元や上杉景勝に匹敵する“力”を持ったのです。

 一方の水口岡山城はと言えば、同じく豊臣政権の行政官だった長束正家が5万石で城主を継ぎ、五奉行の末席に加わりました。

 

西ノ丸の“お尻状”土塁痕 積み石を持ち去られた後の盛土は、どこの城址でもこんな形になっています

階段は近年に造られたもので、虎口ではありません

 

西ノ丸の西側へ下りて行くと、麓に向けこんな曲輪が幾重にも重なっていますが、その多くは藪の中 

 

 

 これで、従来の増田長盛への私的なイメージが無知ゆえの偏見である事が露見しましたが、では何故その長盛は現代に名を残せなかったのでしょうか?

とどのつまりは、関ヶ原での対応の曖昧さに尽きると思います。

 

 長盛は一旦は石田三成に呼応して体勢づくりに奔走し、伏見城攻めにも加わりましたが、その後は何故かトーンダウンして、大津城には家臣を派遣し、自らは関ヶ原には向かわず大坂城に入って留守居を決め込みます。

さらに不可解な事に、その一部始終を家康に報告していたそうです。

 

 三成以上のリソースを持ちながらのこのネガティブな世捨て人的な行動は、それまでの長盛を思うと全くの謎ですよね

長盛に何があったのか…、関ヶ原の帰趨を決めたとも言えるので、今後じっくり研究してみる価値がありそうな武将です。

 

本丸下の帯曲輪まで戻って、北側に遺る残存石垣を見ます 野面ながら、結構大きな石が算木に積まれています。 これなら高石垣も可能か

 

本丸壇上までは7mくらいか? 手慣れた仕事の跡ですね。

 

北側の帯曲輪から登る、ちゃんとした虎口跡 グルリと廻ってここが本丸大手か?

 

 

 大坂城で降伏し、改易となった長盛は剃髪して高野山に入りましたが、尾張藩に仕官していた嫡男の盛次が大坂の陣の際に出奔して大坂方に加わった為、戦後その責任を問われて自害に追い込まれてしまいました。

 

 

その3 につづく