次は甲賀の中心地:水口に移って水口岡山城を訪ねました。
大きな戦国大名が居ず、城も小ぶりな甲賀にあって本格巨大城郭だったこの城は、見どころも盛り沢山なので、複数回に分けて投稿します。
近江の城 水口岡山城 登城日:2020.01.20
別名 水口城、古城、古城山城、岡山城
形式 連郭式山城
標高/比高 283m/100m
築城年 天正13年(1585)
築城主 中村一氏
城主 中村一氏、増田長盛、長束正家
廃城年 慶長5年(1600)
遺構 郭、土塁、石垣、堀切、空堀
文化財指定 国の史跡
所在地 滋賀県甲賀市水口町水口
黒川氏城でも触れた様に、戦国時代の甲賀郡には52家もの小豪族が並立する“惣” が形成されていました。
52家は代表格の望月家、山中家、伴家、美濃部家の4家を中心に、合議制によって連帯の強い惣を運営しており、近江守護の六角氏に従いながらも半独立国の様相を呈していました。
53家の居城を地図にプロットして見ました 和田、三雲家などは足利将軍に出仕した誇り高い家で、多羅尾、芥川家は江戸期に活躍しました。 新しい所では、東京都知事を出した美濃部家も見えます。
旧R1の県道沿いにある大岡山 城山としては大きな山で、これを要塞化すれば巨城になります。
県道沿いにある登城口 いろんな呼び方がされる城です。
登城口には専用駐車場もあって、10台以上停められますが、平日はほぼ貸し切り。
本能寺の変の後、いち早く畿内を掌握した羽柴秀吉も、この連合体には手が付けられず、領地安堵で麾下に加えるに留めました。
しかし、豊臣政権が確立されつつあった天正15年(1885)の紀州攻めに於いて、太田城攻囲戦で甲賀勢に失態があると、秀吉はこれを口実に甲賀の主要な豪族をすべて改易にしてしまいます。
城址見取り図 曲輪がいっぱいで、山上に家臣団屋敷を取り込んだ“ミニ観音寺城”かと思いきや、山にあるのは詰め城機能だけですね。 大軍同士の決戦に使う本陣の城…みたいなコンセプトか?
ともかく、大手道(推定)を順を追って登って行きます。
しばらくは舗装路ですが、椿の多い山ですね。別名『椿山城』…はどうかな?
この後の東征(徳川、北条、伊達)が課題となる中、東海道の玄関先とも言える甲賀の地は、盤石にしておきたかったのでしょうね。
秀吉は甲賀郡6万石の所領に、紀州攻めで功の有った近臣の中村一氏を宛がい、郡内の交通の要衝である水口の地に、拠点となる城の築城を命じました。
舗装路を登り詰めると、広い曲輪跡に出ました。 小公園になって遊具がありますが…。
曲輪を過ぎると地道になり、仏教色を帯びてきます。大岡寺の名残りか?
次の曲輪は稲荷神社になっていました。 まぁ、沢山の神様ですね(^^;
神社を過ぎるとすぐに、大手道?の登り口が。
一氏は水口の外れの野洲川傍にある独立峰の大岡山に目を付けると、山上にあった大岡寺を麓に移転させて、跡地に多数の郭を配した“全山要塞”の本格的な城塞を築城します。
織豊期のこの時代、築城技術は日進月歩の進歩を遂げていますが、この城にも最新技術が投入され、総石垣の主郭には三層の天守が上がったそうです。
だいぶ狭くはなっていますが、ギリ騎乗や輿で登れる斜度にも見えます。
5分ほどで土塁が張り出した枡形の虎口が現れました 櫓門が有ったでしょうね。
その先にやっぱり“大手道”の道標が 上にもう本丸土塁(往時は総石垣)が見えています。
…という事は、ここに武者溜まりが有る筈ですが、それと思しき郭は藪の中(^^; 桜並木が有るから、一度は整備されたんでしょうけどね。
一氏は水口に5年間在城した後、徳川家康の関東移封を受けて14万5千石の大幅加増で駿府城主となり、水口には5万石で増田長盛が入ります。
一氏の甲賀支配は成功だったのか? 気になる所ですが、中村氏の家臣団に甲賀53家の名が誰も見当たらないのが結果を物語っていると思います。
その2 につづく