《前編》の続きです。

 

 六角定頼に和睦を促された蒲生秀紀は、籠城も限界だった事からこれを受け入れます。

音羽城を開け渡し、近臣らとともに移った先は支城の鎌掛城でした。 

カマ掛けられた方が鎌掛け城とは皮肉なものですね(^^;

 

郭内は雑木や倒木が多いものの、遺構は廃城年からすると意外と状態が良く、真っ平らに削平されて土塁もよく遺っています

 

 しかし、これだけ障害物が多いと、写真では思った被写体が肉眼の10%も写りませんね

 

 北東尾根の先端から見えるのは…鎌掛の集落です

 

 

 次は最も遺構が多く遺るという東の尾根へ向かいます 前に10m近い高土塁(切岸)があって、上に郭が有るのが…判りますか? 

 

登って見ると、主郭か?と思われる真っ平らな広い郭でしたが… 判りませんね(^^;

 

 

 その時に造営されたのが鎌掛城の麓の“山屋敷”であり、秀紀はここに住んだと思われます。

おそらく、叔父の高郷への疑心を解いていなかった秀紀は、この時に山上の詰め城機能を拡充して、容易には落ちない城へと変貌させた事でしょう。

 

 しかし、ズル賢い高郷は使用人に化けた刺客を送り込み、毒殺という手段で秀紀を葬り去ってしまいます。大永5年(1525)の事でした。

 秀紀に子はなく、一人居た姉も尼寺に送られた事で秀行の嫡流は絶え、以後の蒲生氏は高郷の子孫が定秀→賢秀→氏郷と繋いで行くのです。

 

尾根の南面にあった二連の竪堀

 

東の尾根には登山道がありました。 よく見れば、これ土塁上ですね、内側には階段状に郭が続きます。

 

先端の郭は土塁が東に回り込み、その先は切岸になっています。

 

土塁のコーナー部に虎口があり、ここから下には登山道が通じてるみたいですね(^^;

 

 

 そして57年の歳月が流れた天正10年(1582)、蒲生氏の当主は賢秀が務めていました。

賢秀は落ち目の六角氏から織田氏に主を乗り換え、信長の信頼を得て安土城の留守居を務める程の側近となっていました。

 人質に出した嫡子:氏郷もたいそう信長に気に入られて、信長の娘を室に貰うなど前途洋々な蒲生氏でしたが、そんな時に本能寺の変が起こってしまいます。

 

虎口を少し降りて振り返ると、こんな感じ。 少しですが石積みも見られます。

 

次に、この登山道らしき踏み跡を逆に辿って西へ向かうと… すぐに三角点に着きました(^^;

ちゃんと予習してれば全て判った事です。

 

頂上からの鎌掛集落 見下ろし感が上がったのと、だいぶ南からの視角になりますね。

 

琵琶湖方向を遠望すると、日野市街のの向こうに近江富士(三上山)が見渡せます

 

 

 留守居役で安土城に居た賢秀は、明智光秀の誘いにも動じる事なく、信長の妻妾を自身の居城:中野城に匿って籠城態勢を取り、また男を上げました。

 事変が落ち着いた同年秋、時代が移った事を悟った賢秀は、家督と中野城を氏郷に讓ると49歳で隠居してしまいます。

そして賢秀が隠居城として選んだのは、なんと鎌掛城でした。

 

隣りの正法寺山の姿で方向を確認して、最後の西の尾根へ向かいます

 

こちらも階段状に3郭以上連なってるのが確認できました 堀切はありません

 

雑木林が杉の人工林に変わる所がどうやら最端の郭みたいです。

おや? 視界が良くなったので、杉の木立の間から麓の様子が見えます。なんと、登り始めの砂防ダムが見えてるではありませんか!

 

メチャ歩きやすそうなので、この尾根を下って行く事にしましたが…

 

スイスイスイと5分あまりで山屋敷に着いてしまいました(*_*)  登りのあの苦労は一体何だったのでしょうか?  くれぐれも、予習は大事ですね。

 

 

 鎌掛城の山屋敷に移った賢秀は、わずか2年後の天正12年(1584)に51歳で死去します。

同年、蒲生氏は伊勢松ヶ島へ加増転封となり、鎌掛城の歴史も終幕となりました。

以後、436年もの歳月が流れています。

 

 

次は水口岡山城を訪ねます。