次は南東の土山方面に戻って、甲賀郡との境に近い鎌掛城を訪ねました。
鎌掛城は標高374mの鎌掛山(城山とも)の山頂に築かれた山城で、麓には大規模な居館跡を有する本格的な城郭ですが、史跡指定が無い為か保全整備は殆ど行なわれておらず、ここもまた“埋もれた土の城”になっています。
近江の城 鎌掛城 登城日:2020.01.09
別名 鎰懸城
形式 山城
標高/比高 374m/160m
築城年 建武2年(1335)
築城主 中野左衛門尉清信
城主 蒲生氏
廃城年 天正12年(1584)
遺構 郭、土塁、石垣、堀切、井戸、空堀
所在地 滋賀県蒲生郡日野町鎌掛
鎌掛城の起源は、室町初頭の建武2年(1335)に中野清信が鎌掛山の山頂に砦を築いた事に始まります。
この人が何者なのかは判りませんでしたが、蒲生氏の日野城のある地区が中野なので(中野城とも呼ぶ)、中野氏という豪族が居たのでしょうね。
この年は南北朝の争乱が始まった年でもあり、地元の国人が一族を避難させ、守る為の砦だったのかも知れません。
鎌掛城遠景(北から) 中央の山が鎌掛山で、山頂に城址が有ります。 奥の山は正法寺山で、この山の西麓に向かいます
クルマは正法寺に停めます この寺は300年ほどの寺ですが、藤の古木が有名で、大きな駐車場があります。
正法寺山の遊歩道を東へ歩いて行くと、5分ほどで鎌掛山との間の谷間に出ます
鎌掛山は373mですが、比高差は160mほどなので小さく見えます。 この時点では少々ナメていました。
城址へは正面の砂防ダムから尾根を直登するのがお薦めみたいですが、左の杉林が“山屋敷”なので此処を見てから登城路を探しま す。
この“鎌掛砦”を城郭に拡張したのは、蒲生氏14代当主の貞秀で、応仁年間に音羽城を築いて居城にすると、続いて南東2kmの鎌掛砦を大改修して支城としたのだそうです。
貞秀には3人の男子が居て、嫡男の秀行は足利将軍に出仕させ、二男の高郷は近江守護の六角氏に、そして三男の秀順は管領細川家に出仕させて、家の安寧を図っていました。
貞秀は52歳で出家して家督を秀行に継がせますが、その秀行は永正10年(1513)に亡くなってしまいます。
山屋敷は“根小屋”ですが、蒲生氏当主の隠居所に使われたので、土塁と堀に囲まれた広い居館です
広い主郭を低い土塁で幾重もの曲輪が囲っていて、関氏の正法寺山荘と良く似た構造です
かなりの広さですが、整備がされてないので案内看板も無く、全貌はよく判りません
しかしこれだけの規模なら、詰め城へ登る道が絶対に有った筈と探し回るも…ありません
仕方ないので尾根を登ろうか…と引き返しはじめた途端、 ありました!
半分落ち葉に埋もれてはいますが、これは広い良い道ですね! これで楽勝だ(^^♪
この時、蒲生氏の跡目について弟の高郷が相続を強く望んだと言われますが、存命だった貞秀の裁定で秀行の子の秀紀が継ぐ事となり、蒲生氏の内に軋轢が生まれてしまいます。
翌年、貞秀が57歳で死去すると高郷はその欲望を顕わにし、出仕先の六角定頼の支援も得て、音羽城の秀紀を攻めるという挙に出ました。
秀紀は叔父の襲撃に驚きながらも、城に籠って徹底抗戦したので戦いは長引き、籠城戦は8ヶ月に及びました。
道は大手道だからか、緩い傾斜で斜面を横になぞる様に奥へ奥へと延びています こりゃ距離は思ったより長いな(^^;
そして杉林を抜け、雑木林になった所で、突然無くなってしまいました(*_*;
道に迷ったか!? とも思いましたが、よくよく見れば木の幹にピンクのテープで道の位置を示してくれています。大手道は、長年の風雨で崩壊消滅したのですね…。
テープを頼りに、 ♪行くぜ東北~ こりゃたまランラン~ とカラ元気を出して歌いながら、道なき道を歩く(よじ登る)こと30分。
やっと郭らしき平場に着きました。 鎌掛城は三つの尾根に段々に郭を配した城ですが、直近の北西の尾根に登るつもりが、着いたのは一番遠い北東の尾根みたいです(^^;
国内の争議に調停に乗り出したのが近江守護である六角定頼で、家臣である高郷に勝たせたい本音は隠して、守護の建前で仲裁案を提示します。
『両家が並び立つ様に、今後の蒲生の家督は交互に勤めたらどうか? 悪い様にはせぬから、ここは高郷の子:定秀に家督を讓る事で、和睦としようぞ…』
…てなもんで、つまり“カマをかけられた”訳ですね。
《後編》につづく