甲賀市から日野町へ入って、今度は蒲生の2城を訪ねます。

日野は蒲生氏の本拠地で、前期の居城:音羽城と後期の中野城はすでに登城済みなので、今回は支城の鳥居平城と鎌掛城を訪ねました。

 

 

 

近江の城  鳥居平城  登城日:2020.01.09

 

 

 形式    連郭式丘城

 築城年   室町中期

 築城主   小倉氏

 城主    小倉氏、蒲生(寺倉、吉倉)氏

 廃城年   天正4年頃か

 遺構    郭、堀、土塁

 所在地   滋賀県蒲生郡日野町鳥居平

 

 鳥居平城はさほど名の知れた城ではありませんが、山城マニアには評価の高い城址です。

評価される理由としては、自然の雑木林の中に遺構がほぼ完全な形で残っている事、そして城の全容が無名な割にとても大規模である事などが挙げられています。

更には、この城の来歴などの資料がほとんど無く、不明な部分がとても多いのです。

 マニアは、そんなミステリアスな城にこそ足を運び、自らの眼力と知識を駆使して“謎解き”する事に喜びを感じる様ですね(^^;

 

山城マニア中級を自認する私も、そんな観点で歩いて見ます。

 

鳥居平城の目印は願成寺 その門前の民家が公民館で、クルマはここに停められます

 

その北東の丘陵が城址で、民家の庭先を横断して入って行きます『お邪魔しまんにゃわ』

 

『城址とふれあいの村』がキャッチフレーズの鳥居平地区、登城路は地元の人達が整備してくれています

 

比高差は20mほどの低い丘ですから、すぐに登れます。 周囲を土塁が巻いた広い郭ですが、え?単郭だった?

 

 

 鳥居平城は南東から北西に延びる舌状台地の上に10以上の郭を連郭で並べた大きな城で、総延長は600mに及ぶそうです。

さほど高くない丘に孤立性の高い郭を細長く並べるのは、戦術上どうなんか? と思いますが、北西の①、②郭などは、初期の城郭にありがちな稚拙な部分を感じてしまいます。

 

郭内にあった案内看板で縄張りを確認すると、此処は①の郭ですが、とても沢山の郭が連なっています(そうだよね~)

*郭№は歩いた順に勝手に付けたものです

 

他の郭は埋もれたまま手付かずの様なので、久々に“藪コギ”に挑戦します

 

登城路の途中の竹林から侵入すると、さっそく②郭の登り口がありました

 

郭内は土塁が巻かれた広い郭ですが、此処も他の郭に繋がらない孤立した郭です

 

土塁上から見下ろすと、帯曲輪があるのが判ります。ひとまず此処に下りて奥へと進んで行く事にします

 

 

 築城主と言われる小倉氏は、鎌倉初期から東近江では佐々木(六角)氏に匹敵する勢力を持った氏族で、戦国中期まで蒲生郡の北半分は小倉氏の勢力下にありました。

 南半分を領する蒲生氏とは、時に戦い、時には縁戚で誼を結んで両立していた訳です。

 

  伝承によると室町中期の小倉実澄の頃、小倉氏は庶子を分出(分家)して枝分かれし、宗家は蒲生郡の佐久良に移って築城し(佐久良城)、周囲に三つの支城を築いて家臣に守らせました。

そのうちの一つが鳥居平城ではないかと言われています。

 

帯曲輪に見えた平場は、平らな小曲輪が階段状に重なっていました。 家臣屋敷跡? しかし、かなりぬかるんでいます。

 

そして一番奥には溜池がありました。 これは、ひょっとして…

 

③郭は段差が少なく土塁はありません

 

しかし外側(北東)に向けては高い土塁で守られています。 土塁基部が水路の様に低くなって、中央が盛り上がっているのは後世に農耕地で活用された証拠ですね

 

土塁上に登ると、北東には斜面が急角度で落ちています

 

 

 しかし、佐久良城は単郭に一重の帯曲輪を巻いただけの、とてもシンプルな城なので、何倍もデカい鳥居平城が“支城”となると大きな違和感があります。

つまり、小倉氏の鳥居平城は台地の先端を堀切で遮断した崖端城で、北西の2~3郭がその城域でしょう。

南東に向けた大部分の城域は後に増築されたもので、それは蒲生氏の仕事と思います。

 

次は南の④郭へ、看板がある様に主郭に比定されてる様です

 

虎口もキレイに遺っています

 

郭内はそこそこの広さですが、土塁の高さが重要な郭である事を物語っています

 

最奥部には一段高い物見台があり、間違いなくこれが主郭ですね。

…という事は、北東からの敵に備えた縄張りになりますが。仮想敵は誰?

 

 

 実澄が永正2年(1505)に亡くなると六角氏の攻勢が強まり、この頃蒲生氏も六角氏傘下に入りました。

すると、小倉氏の分家諸家への工作が始まり、六角氏の麾下に加わる家が続出しました。

  実澄の跡を継いだ宗家の実重、その後の実光は、蒲生氏から正室を迎えていますから、蒲生氏の助力で難局を凌いでいた事と思われます。

  さらに実光には男子が居なかったので、跡は蒲生定秀の三男が養子に入って継ぎました。

これにより、小倉氏宗家は蒲生氏の臣下として吸収されてしまったのです。

 

④郭から奥へは明瞭な堀底道が遺っています

 

道に沿って⑤郭、⑥郭と続きますが、堀切だけで土塁は省略されています。厳密な城内は④郭までか?

 

⑦郭の入り口にまた段々の平場が有り、沼の様になっています…

 

そして一番上には溜池と堤が…。 やっぱり、これは後世の水田の跡ですね。 明治~昭和初期の食糧難の時代には、こんな場所さえも耕地化して乗り切ったんですね。これも歴史遺構です。

 

 

 蒲生氏の城となった鳥居平城には、家臣の寺倉氏あるいは吉倉氏が入ったと伝わりますが、では大拡張は何時、何の目的で行なわれたのか?

可能性が大きいのは、永禄11年(1568)の織田信長の上洛戦(観音寺城攻め)ではないかと思われます。

 信長の協力要請を断った六角義賢は、多方面からの織田軍の侵攻を予測して、蒲生賢秀には自領での迎撃を指示しました。

賢秀が自領北端の鳥居平城を改修して、ここで迎撃態勢を取った可能性は無きにしも非ず…です。

 

⑦郭と⑧郭は堀切も直線的で、土塁は無く、城の遺構というより寺院跡の様な風情です

 

相当な人数が駐屯できる兵站基地の線もありますが、時代の検証が必要です

 

見下ろす先は中ノ郷の田園

 

②③④郭に囲まれた平場は、おそらく大手口であったろうと思われます。 登城路整備はこちらに誘導してくれると有難いですね(^^;

 

 

  しかし、予想に反して信長は直接観音寺城へ殺到した為、鳥居平城での戦いは起こらなかったので記録は残されず、天正12年(1584)に蒲生氏郷が伊勢松ヶ島に移封になると廃城とされ、徐々に人々の記憶からも消えて行った…のではないでしょうか?

 

 

次は鎌掛城を訪ねます