続いて訪ねた黒川氏城は、野洲川上流の土山町鮎河という郷にあります。

鈴鹿山脈西麓の青土ダムと野洲ダムの間に開けた山間の小さな盆地で、戸数300ほどの静かな郷村です。

鮎河は桜の名所らしく、きれいに環境整備がされています

 

 

近江の城 黒川氏城 登城日:2020.01.09

 形式    山城

 築城年  永禄年間(1558~70)

 築城主  黒川玄蕃佐

 改修者  羽柴秀吉? 

 廃城年  天正13年(1585)

 遺構    郭、土塁、堀、石垣

 所在地  滋賀県甲賀市土山町鮎河

 

 野洲川に鮎川が合流する地点にある公園の駐車場にクルマを停めて、徒歩で城址に向かいます。

県道を横断して、堤防道路に入った脇に黒川氏城の案内看板がありました。

 

 

なんと! ありゃま兵衛の向陽閣です!? 山塊に所狭しと無数に並ぶ方形の大きな郭群。これは城ではない!厳密には、土地の豪族が一族の命運を賭けて築き守った城ではありません!!

 

 

 黒川氏城の様に“氏”が付く城名は近世に学者さんが付けた名前です。

裏を返せば、古文書などの記録が伝わらず、城の由来が歴然としない城址だという事で、研究結果で由縁の有りそうな氏族の名が冠された城…な訳ですね。

 そこでまず、黒川氏とは何者なのかを調べます。

黒川玄蕃佐は甲賀53家の小豪族の一人で、鮎川のひとつ南の黒川流域の村を領していました。

 

馬防柵ならぬ、害獣防柵を開けて入って行きます

 

前方の山に、とんでもない規模の城址が隠れていました

 

二重目の防柵も開けて登城します。 現代の方が厳重だ(^^;

 

振り返って見る鮎河の郷と豪族の城址群 この密度が甲賀の惣なので、個々の城は小さいのですが…

 

 

 この土山地域の豪族では、鈴鹿峠を抑える“山中氏”が最も有力で、次いでは大河原氏が勢力を振るっていた様です。

その両氏の間に挟まれた黒川氏は中規模の豪族と推定されますが、最盛期の天正年間には7ヶ村を支配していたそうです。

 

 その勢力を石高に換算してみると、慶長期の近江の石高が83万石で、そのうち甲賀郡は7万5千石でした。

 郡内には130ヶ村あったと言いますから、均等割りすると7ヶ村は4千石程度になります。

最大動員兵力は100名あまり…。

やはり、築城費用の財政的にも、守備能力からしても、黒川氏の城ではありませんね。

 

全体が杉の林で、落ちた枝葉や間伐の丸太が放置されていて歩きにくいのですが、天敵の常緑の小灌木は無いので、見通しは良く効きます

 

広く真っ直ぐな登城路が伸び、両側に郭が積み重なっています。 明らかに小人数で大敵を迎え撃つ構造ではないですね。 前田氏、辻氏とは何者?

 

甲賀53家には見当たらない名前ですが…。 思うに、江戸時代、旗本黒川家の代官が赴任して来て、この場所に住んだのでは?

 

 

 では、いったい誰がこの城を?

となると、やっぱり秀吉しか考えられません。

 天正11年5月、賤ケ岳の前哨戦が北伊勢で始まり、秀吉は7万5千の軍勢で3方向から伊勢に侵攻します。

 土岐・多羅越えで羽柴秀長の2万5千、君ヶ畑越えでは羽柴秀次が2万の兵で攻め入り、秀吉自らは3万の兵で東海道を進み、安楽越えで鈴鹿郡の諸城を攻略しました。

 

屋敷地の奥は左右に高い土塁が立ち塞がり、威圧感があります

 

空堀を持つこの切岸は10m以上の高さがあり、八王子の滝山城を思わせます

 

左手の土塁上から登って見ましたが、50m四方くらいの郭が3つ…学校のグランドかいな(^^;

 

郭を仕切る土塁も直線的で水路を伴い、耕地整理後の田圃を思わせます

 

 

 

 鈴鹿山脈の山越え道は幾つかあり、どれを選ぶかで攻め方、守り方が大きく変わってしまいます。

 居城の長島城に拠る滝川一益を心理的に揺さぶる為、秀吉は千草越え、安楽越え、鈴鹿越えと臨機応変に選べる鮎河の地に眼を付けて短期に陣場を築き、3万の兵を集積して相手の出方を窺ったのではないかと推察します。

 この僅かな期間にしか機能しなかった事が、規模に比して名を残さなかった理由ではないでしょうか?。

 

次は右手の郭(Ⅵ郭)に入ります 虎口の土塁には石垣が使われています

 

内部は40m四方あり、高い土塁が巻いています 防御の要となる郭ですね

 

先ほど見上げた土塁上から見下ろすと、圧巻!

 

次はⅥ郭から主郭(Ⅰ郭)の土塁下を反時計回りに歩いて行きます

 

右手下には名のない小郭が次々に重なり、麓の方まで続いています 一体幾つあるのやら?

 

 

 最後に、黒川氏の名が冠された考察ですが、最盛期の黒川氏が鮎河の地に影響力を持ち、城館(屋敷)を置いていて、秀吉の陣城に供した可能性は有ると思います。

秀吉政権下でも甲賀の豪族達は秀吉に臣従しており、黒川氏が居城として使っていたのかも知れません。

 しかし、2年後の天正13年(1585)、紀州攻めに従軍した甲賀勢は、太田城水攻めの際に築堤担当した箇所の崩落で責任を問われ、全員改易・流罪に処せられてしまいました。

 

主郭の虎口(大手)に着いたみたいです 石段になっていた様ですね

 

虎口は石垣を多用してたらしく、積み石が散乱しています

 

主郭内でまたビックリ! 動揺して手ブレしてしまいました(^^;

雁木は、兵力と飛び道具がふんだんな時にのみ有効になる構造です

 

土塁上から Ⅱ郭の土塁を這い上る敵兵を主郭から狙撃するイメージで見てください

 

 

 15年後の関ヶ原の戦いで家康軍に参加した黒川氏は、論功行賞で旧領への復帰が認められ、以後は徳川家の旗本となりました。

 江戸時代を通じ、城址に代官所があったのかも知れませんね。

幕末に南町奉行や大目付を勤めた黒川近江守盛泰は、この家の人かと思います。

 

 

次は鳥居平城です