遅ればせながら、明けましておめでとうございます。

2020年のブログ初めは初心に戻って、リアルタイムなネタで…と思っていたら、もう10日も経ってしまいました(^^;

昨日になって近江の4城の城攻めが出来たので、やっとホットなネタが投稿できます。

 

 

…と、言う事で、朝から鈴鹿峠を越えて近江に侵攻しました。

♪坂は照る照る 鈴鹿は曇る 藍の土山雨が降る…  

と鈴鹿馬子唄に謡われた鈴鹿峠、ちょうどそんな景色が目の前にあります。

 

R1号線 坂下宿付近 目的地の天候が心配

 

到着した土山宿は雨はほとんど止んでいました 良かった(^^;

 

最初に登城したのは土山城でした。

 

 

近江の城   土山城     登城日:2020.01.09

 形式     山城

 築城年   文明年間(室町後期)

 築城主   土山鹿之助盛忠

 改修者   羽柴秀吉(?)

 廃城年   天正12年(1584)頃

 遺構     郭、土塁、堀

 所在地   滋賀県甲賀市土山町北土山字畑

 

 

  土山城は東海道土山宿の北500mほどの小丘に位置していますが、さほど名の売れた城址ではない為、公園化などの整備はされておらず、駐車場などのインフラもありません。

比較的近くに市役所の支所(旧土山町役場)があるので、クルマはここに停めて歩いてアプローチします。

 

R1号線沿いの便利な立地で、安心してクルマを停められる公共施設もすぐ近く

 

市街地にある登城口は判りにくいので、石碑が目印 山茶花の植え込みの小径を入ります

 

縄張り図 縮尺を見落としていましたが、300m×100mほどの立派な城です

 

 

 戦国時代の甲賀は53家もの小豪族が並立して自治組織を形成する、伊賀とよく似た地域性があって、大きくは六角氏に与力していました。

 土山氏もその一つで、代々土山城に拠って支配していましたが、天正年間に織田信長の属将:滝川一益によって落とされ、一旦廃城になったそうです。

 

谷底の登城路を進みます 両側に張り出した角状の郭から“狙われてる”感が…

 

道は行き止まると、右折れでⅣの郭へ入って行きます

 

まず東側の張り出した郭を南に進んで見ます 堀切を挟んで3つの連郭が並び…

 

最後は市街地の上でストンと切岸になっています

 

 

 伊賀・甲賀の城も領主が分散してる為、“屋敷に毛の生えた”程度の小規模なものが無数に存在します。

その感覚で土山城に踏み込むと、ちょっと混乱してしまいます。

『あれ? こりゃ完全に城だわ…』

規模感で言えば、少なくとも千人単位で籠る城ですね。

 

元に戻って、次は主郭のⅠ郭へと向かいますが、その手前に馬出し(Ⅱ郭)が…

 

馬出しからⅠ郭へはずいぶんと段差があります

 

10m以上の土塁を切岸で造り、堀幅もあります これは立派な防備だ

 

主郭の内部は50m四方くらい 虎口は南・北・東に3つあります

 

東の虎口は外に緩斜面があり、一番脆弱なので雑兵たちの起居の場にしてたかも知れませんね

 

 

 と、なると後に誰かが改修して居城もしくは支城としたのか…ですが、対象となる武将も居なければ記録も無いので、一時的に使われた“陣城”という見方がされています。

 

 そうした場合、可能性が有るのが、天正11年の北伊勢(滝川一益)攻めと、天正12年(1584)から行なわれた小牧長久手の戦いで、いずれも秀吉の進軍路にあたる東海道沿いでは多くの陣城が築かれたそうです。

 

北東の隅は尾根続きなので、小郭を張り出した二重土塁にしてあります

 

尾根には二条の堀切があって、厳重に断ち切っています

 

この方向のⅠ郭の土塁上は広くしてあるので、物見櫓が有ったのでしょうね

 

北側の虎口の外は急激に落ちていて、改変時の工夫は見られません 搦め手を使って反撃する想定は無かったのかな

 

西側には虎口はなく…

 

物凄い段差の崖です 下にあるのはⅢ郭の西側土塁です

 

 

 土山城を比定する証拠は無いものの、秀吉の大軍が前線の状況を見ながら数日間滞在する城としては、充分に有り得る規模であり、逆にそれしか用途が思い浮かびません。

 

Ⅲ郭は城内最大の郭 秀吉滞在時には兵馬と物資で埋まっていた事でしょう

 

この西側の角状の郭群は、縄張り図ではボカされていますが、連郭で南へ延び、切岸で終わっていますから、書き加えるべきですね

 

 

次は黒川氏城を訪ねます