6月に敢行した城巡り旅の最後は若狭・近江国境にある玄蕃尾城を訪ねました。

続・日本100名城にも選出された“名城”で、賤ケ岳の戦いで柴田勝家が本陣とした城ですね。

 

日本200名城 №140 玄蕃尾城 福井県 登城日:2019.6.14

 

 

 別名            内中尾山城

 城郭構造      山城        

 築城主         佐久間玄蕃允盛(諸説あり)

 築城年         天1011年(15821583

 主城主      柴田勝家(賤ヶ岳の戦い時の本陣)

 廃年         1583年(賤ヶ岳の戦い後)

 遺構            郭、空堀、土塁、小口、土橋

 指定文化財   国の史跡

 訪城の観点  柴田軍本陣としての機能性

 見どころ    戦国山城の集大成とも言える郭群の残存状況

 所在地     福井県敦賀市刀根

 

 

 福井・滋賀県境の玄蕃尾城を訪ねるにあたり、どちら側からの登城が良いか検討しましたが、あらゆる面で整備が良いのは圧倒的に福井側であり、実質的にここは福井県(敦賀市)が管理している城と見て良さそうです。

 

刀根の谷間の山道をひたすら走ると、行き止まりが駐車場でした

 

登城路は雑草の整備も行き届いてキレイでした

 

5分ほどで道は峠に着き、左手(北)に城址への登り口があります

 

 

 玄蕃尾城が築城されたのは信長の死後、清須会議を経て柴田勝家と羽柴秀吉の確執が決定的となった天正10年も終盤の事と言われています。

 築城を指揮したのは勝家の副将格で甥の佐久間盛政で、盛政の官位(玄蕃允)からそう呼ばれた様です。

 

 そして、翌天正11年の4月に起きた両軍の激突(賤ケ岳の戦い)では大将の勝家が着陣しましたが、敗戦によりすぐに廃城となった、僅か半年ほどの短い命運の城でした。

 

登りはすぐに平坦な尾根道になりますが、もう郭内? と見まごうばかりに広い平場の尾根道が続きます

 

城址の虎口に案内看板がありました。 両県で整備した城址の様ですが、現在も力を入れてるのは福井県だけみたいです

 

いよいよ城内に入ります

 

 

 ただ、この城がある刀根峠の周辺は、その10年前に織田信長が朝倉義景と激戦を交わした地なのです。

 

 近江小谷城を囲んだ信長に対し、浅井の同盟の朝倉氏は2万の兵で援軍に駆け付けました。 信長の急襲に総崩れとなって越前へと敗走し、信長はそれを追撃して一乗谷へと攻め込み、朝倉氏は滅亡するのですが、途中の刀根峠で朝倉軍は体勢を立て直し、織田軍を迎え撃って大激戦となりました。

 

 この戦いで朝倉義景は信頼できる近臣の多くを失い(美濃から逃れ客将となっていた斎藤龍興もここで戦死しています)、最後の抗戦となってしまった訳ですが、そんな場所だからこそ当時からそれなりの陣城(砦)が整備されていたのは疑いのない所でしょうね。

 

最初の郭は馬出し曲輪ですが、西に向いた二重土塁の厚い備えが見事

 

2つ目の郭へは土橋一本で繋がり、少し奥で左折れで郭内へ入ります 1郭めを捨て曲輪にできる厳重な造りです

 

2番目の郭は武者溜まりと思われますが、次の主郭から張り出した出曲輪が虎口を守っています

 

 

 佐久間盛政による玄蕃尾城ですが、規模は大きくはないものの、完成度の高い縄張りには感心するばかりです。

 全体構造は刀根峠から敦賀に至る途中にある疋壇城に酷似している事から、実際に縄張りしたのは地の豪族の疋壇氏と言われています。

 ともかく、他の多くの陣城に、それを繋ぐ間道の整備を冬季間の限られた時間で突貫工事でやった訳すから、その全体を企画・指揮したのが盛政であったと見るべきでしょう。

 

主郭の南側も腰曲輪に守られ、その間の空堀と土塁は見応えがあります

 

主郭内は40m四方の広さで、勝家の座所と作戦本部ですね 北東の隅には櫓台を備えています

 

櫓台には礎石が残っていました 急造のものではない天守相当の建物があった証拠ですね

 

 

 玄蕃尾城から南に向けては広い尾根道が整備され、その4km先には行市山砦があります。

ここは奥まった玄蕃尾城と違い標高も200m高く、余呉湖周辺の眺望が効く大将の本陣にふさわしい絶好の場所ですが、本戦でここに陣取ったのはなんと佐久間盛政でした。

 

 この様に、賤ケ岳の戦いに踏み込んで行くと、柴田勝家の姿は次第に薄れ、盛政の存在だけがクローズアップされて来ます。

そして結末はご存知の通りなのですが

 

主郭の北側には最大の郭があり、居住区だった様ですが、土塁1枚で城外になります これも北側の勢力が造った城の証明ですね

 

改めて城内最高所から南を臨みますが…ほとんど何も見えません これでは指揮所には不充分です

 

 

 天下の行く末を左右した賤ケ岳の戦いの全容も、現地を歩いてちゃんと調べなきゃと思うのですが、武骨で生真面目な律義者が狡猾で口達者な新参者に追い落とされて行く様は、利に転ぶ周囲の人間の弱さだけを浮き彫りにしてしまう様な気がして、なかなか足が向かないものです

 

おわり

 

 

 

 2019年も最後の投稿となります。

年の後半からamebloに転入して、相変わらず掲載容量の問題で苦しんでいますが、次第に観て貰える人達、いいねをくれる人達も増えて来て励みになっています。

ありがとうございました

 コメントして下さる方はまだ少ないのですが、気楽に何でも書き込んで頂けたら掲載を断念した秘話なども書けるので、楽しみにしています。

さま、良い年をお迎えください。