最初に朝倉軍が攻め寄せたのは永禄6年(15638月で、築城の6年後の事でした

朝倉義景の命を受けた手筒山城主:朝倉太郎左衛門の手勢千人あまりの兵力で、対する粟屋勢は武士2百に近郷の百姓6百が加わって籠城し防戦したそうです。

 

 兵力差を過信した朝倉勢は東の急斜面から力攻めした為、百姓達の投げ落とす大石や丸太の餌食になり、夥しい被害を受けた所に武士が斬り込んで来た為、討死に267人という惨敗を喫し、敦賀へと逃げ帰ったのでした。

 

二ノ丸からの尾根道を登って、帯曲輪に着きました

 

ここには腰巻き状の石積みの跡が見られます

 

 

 翌永禄7年(15649月にも朝倉軍は侵攻して来ます。

前年りてか、今度は国境近くに本陣を構え、急斜面を避けて南北の尾根から鉄砲隊を先頭に攻めりましたが、馬の背の尾根筋を縦列で進むのでは兵力差を活かした戦いにならず、城側に高所から狙い撃たれる状態で被害が増えたので、攻城は諦めざるを得ませんでした。

 

 『粟屋勝久恐るべし!と悟った朝倉勢は、監視のための付城を築くと、付近の郷村を荒らし、刈り取り前の稲だけでなく大豆や野菜まで奪って敦賀へ引揚げました。

 

曲輪の奥まった尾根は堀切で遮断され、右手が本丸、左に行くと連郭郭群があります

 

鶴翼の様に広がった尾根に段状に連続し曲輪を配したもので、戦闘時には主戦場となる運命の施設です  崖際には投石用の石仏が…非戦闘員でも手っ取り早く効果の出せる武器です

 

 

 その後、永禄10年(1567)まで毎年にわたり初秋に現れた朝倉軍は、攻城戦を挑もうとはせず、村々を襲っては穀物を収奪する“野盗団”と化していました。

「粟屋氏の活動基盤となる糧食を絶つ戦略」かも知れませんが、千名足らず、小城ひとつの相手に越前守護家の朝倉氏が採る戦略としては嘆かわしい限りです。

 

  かつて応仁の乱で勇名をはせた朝倉敏景は、朝倉勢が通ると誰もが道を開けるほど東西両陣営から最も恐れられた武将だったと言います。

東軍の細川勝元は、越前守護をエサに敏景を買収・寝返らせた事で実質勝利を得たほどですから

 

Ⅱ郭と名付けられた郭は木々が刈られ、当時の雰囲気が再現されています

 

朝倉勢がやって来る丹後街道が眼下にあり、敦賀方面がよく見渡せます

 

Ⅲ郭へは10m以上の段差があり…

 

 

 永禄11年の初秋にも朝倉軍はやって来ました。

しかも今度は大軍での来襲で、意気込んだ粟屋勢でしたが、朝倉軍は佐柿の城下を素通りすると、西の小浜方面へ消えて行きました。

 

  若狭守護:武田氏の当主は義統から元明に代わっていたものの、家臣団には積極支持されない不安定な当主でした。

  その家臣団を攻略できない朝倉氏が目を付けたのは、守護職の武田元明本人で、後瀬山城を囲むと元明に“降伏”という公式の手続きを踏ませた上で、以後の若狭における武田氏の統治は朝倉氏が後援するとして、体よく乗っ取りを果たしました。

  元明は一乗谷へ連行され、その後の若狭守護の命令書は一乗谷から出された訳です。

 国吉城の粟屋勝久の元にも元明からの“開城降伏命令”が届きましたが、勝久にそれを守る気などさらさら無く、籠城抵抗戦はなおも続きました。

 

立ち木に張られたロープが命綱で降りて行きます

 

Ⅳ郭は右端に虎口が造られて下へ通じています

 

平坦でまとまった広さがあるⅤ郭は居住区だったのかも知れません

 

 

  事態が動いたのは元亀元年(15704月のこと、畿内を平定した織田信長が朝倉討伐に乗り出してきます。

  若狭に入るとまず国吉城に乗り込んだ信長は、勝久のこれまでの戦いを褒め称えたと言われ、以後は勝久も信長の配下に加わって越前へと駒を進めます。

  しかし、この時は近江浅井氏の裏切りが発覚したため、退陣となりました。

 

Ⅵ郭は東側に土塁を配しています 最先端の郭ですからね その先は急な斜面が麓へと落ちていました

 

 

 天正元年(15738月、3万の軍で小谷城を囲んだ信長は、救援の朝倉軍を急襲して破ると、敗走する敵を追って一気に越前一乗谷まで攻め込みます。

その先頭には粟屋勝久の姿がありました。

  大した抗戦も無いまま朝倉はあっけなく滅んで、一乗谷では織田兵による略奪合戦が展開されましたが、勝久は旧主:武田元明の幽閉先に乗り込むと、元明を救出して若狭へと連れ帰る事に成功しました。

 

 武田氏の支配体制の再興を望んでいた勝久でしたが、信長から元明に与えられたのは僅か3千石の知行のみで、若狭国は丹羽長秀の領地となり、勝久もその与力に組み入れられてしまいます。

  やはり、朝倉氏の不甲斐ない戦いぶりと滅び方が、相対的に勝久の戦功を色褪せたものにしたのかも知れませんね。

 

堀切に戻って、今度は本丸へと登って行きます 山肌には角ばった石が散乱していますから、鉢巻き状の石垣があった様です

 

と、前方に乱積みの石垣が現れました! なんと…

 

けど、防御にはちょっと小さすぎますね(^^; 集積されてた投石をマニアの人が積んだのでしょう

 

 

 本能寺の変の後、勝久は羽柴秀吉の命で領地替えをされた様で、国吉城には木村重滋が入りました。

勝久はその頃に失意のうちに病死した様ですが、移った領地が何処かは判っていません。

 勝久の子孫は藤堂高虎に仕えた様で、寛永7年(1630)の津藩分限帳に粟屋介大夫(孫?)の名が見えますが、知行高は僅か300石となっています。

 

本丸には石積みで枡形の虎口が造られ、城門もあった様です

 

本丸は500坪近い平坦地でした

 

粟屋勝久が毎日見下ろしていた領地の佐柿郷と美浜の市街 下の集落が城下だった様です

 

 

 佐柿国吉城のその後は、木村重滋が秀次事件に連座した後は、小浜城主の堀尾、浅野、木下、京極、酒井と支配者が替わり、元和元年(1615)の一国一城令で廃城となりました。