3泊目の宿を取った東山温泉は、会津藩の湯治場として発展した温泉だそうで、民謡“会津磐梯山”で小原庄助さんが身上潰したのは、ここのお湯があまりに良かったからだそうです(^^;
写真:旅館HPより借用 宿泊した『原瀧』さんは今回が2度目ですが、部屋、風呂、食事処から渓流が見渡せ、静かで風情のあるオススメな宿です
4日目は昨日廻れなかった“日新館”から始めます。
日新館とは会津藩松平家の藩校で、鶴ヶ城の西隣にありましたが、戊辰戦争で焼失していとのを、昭和62年(1987)に会津若松市街の北のはずれに完全復元したものです。
開設が享和3年(1803)と比較的新しい為、図面などが残っていたのでしょうね。
日新館は交通の便の良い磐越道の会津IC近くに復元されています
この日は昨日と打って変わり、暖かい南風が吹く好天に恵まれました
棟の先の猫背な獅子像は… ベルリンで見た記憶がありますが、定かではありません(^^;
会津藩では藩士の子息はもれなく10歳から15歳まで此処で学ぶ事が義務付けられ、さらに成績優秀者が続けて学ぶ“大学”も併設されており、常時400名を超える生徒が居たといいますから、藩校としては屈指の規模であり、学習水準も充実していたと言えます。
藩士として有用で上質な教育を施せば、自ずと奉公の質も上がり、ピンチに強い強固な藩政の実現へと繋がって行くのですが、会津藩にとっては却ってそれが仇となってしまいます。
整然と立ち並ぶ二階建ての教室群 近代学校のレイアウトの基になったのでは?
素読、書道の他、武道、科学、天文とカリキュラムは豊富でした
おなじみ“什の掟”
幕末の藩主:松平容保は、討幕の波の大きさを知りながらも、最終的に“徹底抗戦”を判断しました。
重臣の中には破滅を予見でき、恭順を薦める者も居ましたが、“藩主の決断は絶対”の元で一枚岩になった藩は絶望的な戦いへと突き進み、老若男女を問わず大きな悲劇を生んでしまいます。
旧日本軍の士官学校にも通じるものが有りますが、教育の恐ろしい一端を垣間見た気がします。
天文台から、東には大きな観音菩薩が立っています
売店で運試しにやったガチャ 北条でるなよ…と祈って、出たのは真田でした(^^)
磐梯山にも別れを告げて、次に向かいます
会津を後にした旅は、喜多方~米沢へと進む思案もあったのですが、今回は磐越道で新潟へと向かいます。
奥羽山脈を越えて新潟平野に出て、訪ねたのは『北方文化博物館』です。
此処は日本一の豪農と言われる“伊藤文吉家”の邸宅をそのまま博物館とし、かつての暮らしぶりや宝物などを見学出来る施設です。
邸内26の建物の中でも、凝った意匠の母屋は商家≒洋館の風情ですね
6千坪の敷地には、小作人の農家も移築復元されています
大庄屋の邸宅が保存されて見学できるのは珍しくはありませんが、日本一の穀倉地帯で収穫率の高い越後の庄屋はさすがに規模が違います。
1385ha(約415万坪)もの貸農地から毎年揚がる賃料はさぞや莫大だった事でしょう。
日本庭園も大名庭園並みの見事さ
紅葉の名所らしく、欧米系の外国人がたくさん訪れていました
越後記念といえば名産の米、良い米といえば銘酒です。 と、こじ付けて買い求めました(^^;
日頃わずかな土地で家庭菜園を営みながら、日本の農業の将来を案じる事もすくなくありませんが、越後の果てしなく続く整備された田畑を見ると、 不安も何処かへ吹き飛んでしまいます。
そんな風景を観たくて、次は弥彦山登頂(ロープウェイで)を考えていましたが、新潟に着くなり小雨模様となって、断念です。
弥彦山ロープウェイHPより 豊かで広大な田園風景
この日の夜は長野の黒姫高原で貸ロッジを確保したので、柏崎からは日本海沿いの国道を走り、直江津から上信越道で長野に向かいます。
5日目につづく