次は小浜で後瀬山城の “後継の城”となる小浜城址を訪ねました。
若狭の城 小浜城 福井県 登城日:2019.6.14
別名 雲浜城
城郭構造 輪郭式平城・海城
天守構造 層塔型複合連結式3重3階(1635築)非現存
築城主 京極高次・酒井忠勝
築城年 慶長6年(1601年)
主な改修者 酒井氏
主な城主 京極氏・酒井氏
廃城年 1871年
遺構 石垣
指定文化財 福井県史跡
訪城の観点 名門京極家の縄張りは
見どころ 唯一残存する本丸石垣
所在地 福井県小浜市城内1丁目
外堀を兼ねる南川の対岸から見る城址 パッと見近世の城の雰囲気はありません
城内看板より 江戸期の縄張り 現在は本丸が小浜神社として残るのみです
関ヶ原の戦いの後、若狭一国8万5千石を与えられたのは京極高次でした。
高次は近江大津6万石の身代でしたが、本戦ではなく大津城に籠城して戦い、西軍の毛利元康、小早川秀包、立花宗茂ら1万5千の兵を釘付けにした功による加増です。
現在も、『もしも立花宗茂が関ヶ原に布陣していたら…』という議論がありますから、その後の加増(max26万石)を想うと家康の評価は高かったのでしょう。
小浜に入った高次は、それまでも前任者の造った城を転々として来た『ヤドカリ大名』の為か、いつもの様に木下氏の去った後瀬山城を居城として使います。
しかし間もなく、家康からは“新城築城”の命が下りました。
日本海の海運の拠点として発達していた小浜湊でしたから、西国の外様雄藩が海路ここに殺到する事を警戒したのでしょうね。
神社入り口の脇にある辰巳櫓台 谷積み…ですね
小浜神社は酒井忠勝を祀っています 治世期間を思えば、小浜=酒井氏は必然かも
慶長6年(1601)、高次は後瀬山城の北東の、北川と南川の河口の三角州(雲浜)に平城を縄張りして築城を開始しましたが、知見の乏しい中でいきなり軟弱な砂地での工事は困難を極めました。
着工から8年を経た慶長14年(1609)5月、高次は病死してしまい跡は嫡男の忠高が継ぎ、築城工事も受け継ぎます。
5年後の慶長19年には大坂の陣が起こり、豊臣家は滅んでしまいます。
家康の心配が杞憂に終わって事なきを得ましたが、この時点でも小浜城はまだ完成していませんでした。
20年後の寛永11年(1634)、京極家は出雲、隠岐2ヶ国26万石へ大幅加増で転封し、後瀬山城を後に堀尾氏創建の名城:松江城へと移ります。
あれ?小浜城はどうなったの? …と言えば、完成には程遠く、工事も中断してほぼ放棄された状態だった様です。
天守台は凝った構造で唯一の見どころ 徳川譜代ながら野面なのがイイです
天守台から南に臨む後瀬山
京極氏の跡には武蔵川越から酒井忠勝が12万3千石で入ります。
酒井家でも忠次の家系(左衛門尉家)ではなく、雅樂頭家の方ですね。
譜代で唯一の国持大名となった忠勝は、小浜城の完成にこだわり、縄張りを大幅に変更して築城を再開したそうです。
そして8年後の寛永19年(1642)に、足掛け41年でやっと竣工した小浜城には天守も備えられており、二条城によく似た城郭であったと言われます。
以後は酒井家の居城として230年間を経て明治を迎えました。
海方向の南側も内堀が埋められ、宅地化しています
石垣の間際まで迫る民家 ここまでやるか!?
前段で京極氏の事を『ヤドカリ大名』などと書いてしまいました(^^;
滋賀県の方の怒りを買ってしまいそうですが、呼び名はともかく、京極氏は偶然にも(?)城をタダで手に入れたパターンが大半です。
徳川幕府は外様イジメも併せて、親藩にはそんな優遇措置をしていますが、京極氏は外様ながらホントに優遇されていますね。
ところで、京極高次が企図した小浜城の縄張りはどんなモノだったのか?
十分には調べられず今の所謎のままですが、経緯から見て不都合な資料は残ってないんでしょうね。