城歩き旅の3日目は、丹後に入って舞鶴市の田辺城から始まります。

 

丹後の城  田辺城  京都府  登城日:2019.6.14

 

 別名     舞鶴城

 城郭構造       輪郭式平城

 天守構造       天守台のみ

 築城主    細川藤孝

 築城年    天正7年(1579年)

 主な改修者  京極高三、牧野親成  

 主な城主   細川氏、京極氏、牧野氏

 廃城年          明治7年(1873年)

 遺構             石垣、堀、庭園

 指定文化財    市指定史跡

 再建造物       櫓・門・塀、模擬櫓保月城、保築城

 訪城の観点    籠城戦を守り抜いた縄張りと戦略

 見どころ   幽斎が手掛けた天守台遺構

 所在地    京都府舞鶴市南田辺

 

 

 田辺城は室町時代には丹後国守護の一色氏の館があった場所で、織田政権下で南丹後に侵攻した細川藤孝が、自らの居城としてその跡地に築城したと言われています。

 藤孝の城としては、宮津城が居城だったという説もありますが、その後の使われ方からして、田辺城が中心だった様ですね。

 

細川時代の田辺城

 

江戸時代の城域と現存公園エリア

 

 

 織田政権下では明智光秀の配下だった藤孝。

幾多の戦場で光秀を助け、また丹後攻略では援軍をもらって成就させた藤孝ですが、本能寺の変事はこの田辺城に引き籠もって、光秀に呼応する事を避けました。

これも歴史の謎のひとつなので、今回触れておかねば成りませんね。

 

 細川藤孝という人がそもそも誰なのかという事ですが、細川氏は足利氏の支族で、応仁の乱で東軍を率いた細川勝元の頃には9か国もの守護職を占めた名族です。

 藤孝は細川氏の中で“和泉上守護家”と言われる分家の当主で、父の代までは和泉半国の守護を務めていた、傍流の家柄ですね。

 

 戦国時代、細川氏の勢力圏は次第に家臣の三好長慶に乗っ取られて行くのですが、藤孝が相続した頃にはもう和泉に支配権は無く、幕臣として将軍の傍近くに仕えて、糊口を凌ぐ状態だった様です。

 それが、三好三人衆による将軍:義輝暗殺を機に、弟の覚慶(後の義昭)を担ぎ出して、さらに織田信長の救けを得て“足利将軍家再興”を成し遂げた事で、没落した細川一族の中で一気に“本流”に躍り出た訳ですね。

 

櫓門は資料館

 

 

 一方の明智光秀はというと、将軍義輝に足軽として仕えていた説もありますが、朝倉義景に仕官していた事で藤孝と面識を得たというのが一般的な説の様です。

 義昭が朝倉を見限って信長に接近する際、使者に立った藤孝に美濃に明るい光秀が道案内役として同行したのが同一行動の始まりですね。

つまり、藤孝にとっては明らかに目下、家来格であった光秀です。

 

 ところが、正式に信長に仕官した後はメキメキ頭角を現した光秀が、いつしか自分に指図する格上の武将になって、立場は逆転してしまいます。

 名族意識の高い藤孝にとって、これは心地良い筈も無く、内心は忸怩たる思いであった事でしょう。

 そして来た本能寺の変。

この企みは成功しない…』という武将の直感よりも強く働いたのは、今後も永劫に光秀の風下に立たされるのは御免だ!という偽らざる心情だったのかも知れません。

 

掻き揚げ土塁(石垣)の典型的な平城です

 

 

 光秀の誘いにも藤孝は家督を忠興に譲ると出家して幽斎と号し、丹後から動かず、光秀のクーデターは失敗に終わります。

 羽柴秀吉に臣従した細川親子は鄭重に扱われ、幽斎は秀吉の伽衆になります。

忠興も小牧長久手の戦い、九州征伐、小田原征伐と従軍しますが、何故か石高の加増はありませんでした。

 おそらく秀吉にとって血統と気位の高い細川家は、武官としても文官としても、使いにくい大名だったのではないでしょうか?

 

 それに目を付けた大老:徳川家康は、秀吉が死ぬと“6万石の加増(合計18万石)”を断行し、細川家の抱き込みを図ります。

関ヶ原の戦いに際して、細川家への勧誘では但馬10万石の加増が約束されました。

 

庭園は現存遺構らしい

 

 

 上杉征伐では忠興が主力5千を率いて出陣し、幽斎は留守居となりました。

 しかし、石田三成に呼応し西軍についた福知山城主の小野木重次が周辺の大名を糾合し、総勢15千の大軍で丹後に攻め込んで来ます。

 幽斎は残兵をすべて田辺城に集め籠城戦を構えますが、わずか5百の兵しか集まりませんでした。

 

 田辺城を包囲した西軍は、散発的に攻撃を仕掛けますが、老練な幽斎の指揮する城兵に悉く跳ね返され、長期戦の様相を呈して行きます。

 小野木重次が代表しているものの、織田信包や小出吉政といった名のある将も居て、統一した効果的な攻めに至らなかった様ですね。

 

展示の籠城合戦イラスト

 

 

 籠城2ヶ月の9月の中旬、御陽成天皇の勅使が到着し、双方講和せよとの勅命が下った事で田辺城は開城となり、幽斎と家臣達の身の安全は保証されました。

 関ヶ原の戦いが起こったのは開城の2日後の事で、結局は5百の寡兵ながら、15千もの西軍を丹後に釘付けにし、本戦に参加させなかったという大功を果たすのです。

 

 戦後の論功行賞で細川忠興には、約束通りに丹波、丹後28万石ではなく、豊後中津40万石が沙汰されました。

その差はご隠居:幽斎の働きが大きかったのでしょうね。

 

天守台は藤孝作だそうです

 

 

 細川氏が去った丹後と田辺城には信濃飯田から京極高知が123千石で入ります。

高知はすぐに居城を宮津城に改めて築城した為、一国一城令に反する事から田辺城は一旦破却されてしまいますが、高知は相続に際して藩を三分し、嫡男:高広に宮津藩75千石を、二男:高三に田辺藩35千石、養子の高信には峯山藩1万3千石と分割相続させました。

この為、高三は田辺城の一部を再建して居城としたので、田辺城は復活しました。

 

 田辺藩京極氏は3代続いた後に丹波豊岡に転封し、京都所司代の牧野親成が領地を摂津、河内から移され3万5千石で入って来ます。

 親成は田辺城の石垣や城門を増強するなど、細川時代に近い整備を行うと、その後の200年間を代々世襲して明治に至りました。

 

小学校に現存する藩校の門