今治を後にして西に向かい、丸亀を目指します。
これが思ったよりも結構距離が有り、丸亀のホテルに入ったのはもう日没後になりました。
一夜明けて4日目、すぐ目の前ですが丸亀城を訪ねます。
 
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ホテルの部屋から見えた丸亀城天守 夜→朝
 
 
 
日本100名城 №78 丸亀城 香川県 登城日:2018.12.20
 
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 別名         亀山城、蓬莱城
 城郭構造     渦郭式平山城
 天守構造     御三階櫓(複合式層塔型33階)(1660年築)
                (独立式層塔型33階)(1877年改)
 築城主     奈良元安
 築城年     室町時代初期(14世紀頃)
 主な改修者  生駒親正、山崎家治
 主な城主   生駒氏、山崎氏、京極氏
 廃城年     1871
 遺構       現存天守・門・長屋・番所、石垣、堀
 指定文化財  重要文化財(天守・大手一の門・大手二の門)
              国史跡
 所在地      香川県丸亀市一番丁
 
 
 
 丸亀城は“日本一の石垣”を持つ城として有名です。
日本一の石垣といえば、大阪城や熊本城を思い浮かべるのですが、丸亀城の日本一はその高さにあります。
つまり、さほど広くない本郭の城域に四段に積み上げられた石垣の総高60mが日本一の高さなのです。
 単体では20mほどの高さが最高ですが、あまり間を置かずに次々に重なる石の壁は“聳え立つ”様な威容を感じ、日本一の名に恥じない、高さを楽しめる城ですね。
 
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資料館裏の駐車場にクルマを入れて、改めて城址を見上げます 高い要塞です!  あれ?右の方、崩れてない?
 
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よく見える場所に移動すると… あぁ~崩れてる(*_*;  後刻に案内所で確認したら、10月の豪雨で崩落したんだそうです
 
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立派な資料館があるのですが…
 
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また、これだ!(-_-;)  年末は空いてて狙い目だけど、デメリットもありますね
 
 
 丸亀城の起こりは室町時代の初期、讃岐守護:細川頼之の臣:奈良元安が独立した小山だった“亀山”に砦を築いたのが最初と言われます。
  元安は細川家の四天王の一人と言われる重臣で、頼之は讃岐だけでなく複数の国の守護も兼ね、且つ幕府の管領職でもあったので、讃岐西部の支配を元安に任せていたのでしょうね。
 しかし元安の本拠は5kmほど東の聖通寺山城でしたから、丸亀の砦は支城の役割で、元安の家臣か一族が守っていた事でしょう。
 
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正面玄関の大手門付近を見学します 此処は玄関先御門 城主の御殿の表門で、現存建物の重文です
 
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そして大手一ノ門の櫓門 これも現存重文です  朝の掃除の最中でした
 
イメージ 34一ノ門の外側には二ノ門の高麗門 これまた現存重文
 
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大手枡形は右折れでかなり広い! 見える物すべて重文で当時そのままですから、重点ポイントですね
 
 
 
 戦国時代、足利家の支族である細川家の領地:讃岐は比較的平穏で、奈良氏が守護代化して統治していましたが、末期の天正10年(1582)に土佐の長宗我部元親が侵攻して来ると、奈良氏は讃岐を支え切れずに阿波に逃れた為、一帯は長曾我部氏の支配となりました。
 しかし、僅か3年後には秀吉の“四国征伐”があり、長曾我部氏はまた土佐へと押し込められてしまいます。
 
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大手門の外側から 狭間部分が板貼りの珍しい意匠ですね 工事車両は堀の水を抜いてました
 
イメージ 37ヘドロが溜まって浅くなってしまってますから、大掃除ですね
 
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郭内に戻り、内側の狭間から覗いてみました
 
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石垣上から堀の様子を見ます 内堀の幅は40mくらいか
 
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二ヶ所ある大きな舟入り 水深が無くて舟は動きそうにありませんが(^^;
 
 
 新たに讃岐17万石の地は秀吉の武将の生駒親正に与えられます。
15年に讃岐に入った親正は、聖通寺山城を居城とするも、手狭なため亀山に新城の築城を企画しますが、丸亀は讃岐の中でも西に寄り過ぎているので、この計画はすぐに撤回され、新城は高松に築かれて居城となりました。
 しかし秀吉の衰えが目立ち世の中がキナ臭くなってくると、親正は亀山に西讃岐を守る支城の築城を決行します。
豊臣政権では三中老のひとりだった親正には、 翌年の秀吉の死後の混乱が見通せてた訳ですね。
 
 
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『見返り坂』を登ってメインの石垣を見に行きます 突然現れるのは三ノ丸高石垣 圧巻です
 
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左手には異様な高さの櫓台がありますが、結局櫓は建たなかった様ですね
 
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連続した高石垣の重なり構造は津山城にも似ていますが… 津山の武骨さに比べて、ずいぶん優雅な仕上げに見えます(^^;
 
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まだ三ノ丸にしてこの高さ 向こうに見えるのは讃岐富士の飯野山
 
 
 この城は丸亀城と名付けられ、嫡子の一正が入りましたが、縄張りなどは江戸時代のものと殆ど同じだったそうです。
ただ、大手口は逆方向の南を向いていて、郭も土塁を多用した比較的簡素な造りだった様ですね。
関ヶ原では生駒家は一正が手勢を率いて東軍に参加し、親正は西軍を表明しながら一切動かなかったので、“所領安堵”となりました。
 
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三ノ丸をグルリ廻るつもりでしたが、崩落現場が近いのかすぐに通行止めでした
 
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二ノ丸に上がって来ました 櫓台がたくさんあります
 
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北側(海)を臨む 土塀の支柱穴が小さいので鉄筋を入れてたのか? と思いましたが、近年の手摺の痕ですね
 
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二ノ丸の井戸は日本一深い井戸だそうで、65mあります
 
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水面は見えませんね(^^; 羽坂重三郎伝説もこの井戸ですが、戦国の最中ならともかく、伝説でしかない様に思います
 
 
 
 元和元年(1615)、一国一城令により丸亀城は一旦廃城になりましたが、寛永17年(1640)に生駒氏がお家騒動で改易になると、翌年に肥後天草から島原の乱後の復興を成し遂げた山崎家治が西讃岐53千石で入って来ると、家治は丸亀城を復興させて居城にしました。
 家治は幕府の密命を帯びていて、瀬戸内を通るキリシタンの動きを監視する堅城の造営を命じられていたという説があります。
 その為に家治には築城資金が下賜され、その間の参勤交代も免除されていたと言いますから、マユツバでも無さそうです。
 
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山崎家治の画像は無かったので、これで…(^^;
 
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頂上の本丸に登って行きます
 
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天守は現存12天守で一番小さい…と説明されていますが、たぶん備中松山城の方が小さい
ただの三重櫓という説もある様ですが、城内側に破風を作るのは天守です(持論)
 
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入り口付近は漆喰の修理中で土壁が剥き出しでした
 
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1660年築造ですから、国宝級の歴史を刻んでいます(重文)
 
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昭和25年に大規模な解体修理を受けていますから、部材がまだ新しいのは残念なところ
 
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展示してあった復元CG  幕府と京極氏の交わした修復の文書に『櫓は山上に6棟、山下に4棟…』とありますから、もう少し少なめだった様です
 
 
 ともかく、現在に残る丸亀城の威容はこの家治が20年の歳月を費やして完成させたものの様ですから、5万石余りの身代で成せる事ではなく、幕府のバックアップが有ったのは事実でしょうね。
 
 
 山崎氏も明暦3年(1657)には幼少の藩主が病死して無嗣改易となってしまいます。
替わって丸亀城に入ったのは播磨竜野からの京極高和で、6万石での移封でした。
 
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天守最上階から大手門方向を見下ろす 夢に出て来そうな高さです(*_*;
 
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崩落部分を確認に、本丸高石垣の西側へ下りて行きます
 
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三ノ丸西側の高石垣です これだけの高さがあるのに、排水の樋の位置がかなり上ですよね?
 
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そこから見える崩落個所 石垣全体が地滑りを起こして内側に倒れ込んでる様に見えますから、下層部に水が溜まったんではないかな?
 
 
 この京極氏は外様ながら徳川親藩松平氏と同じで、近江八幡、大津、小浜、松江…と他人が汗して築いた堅城を与えられる“ヤドカリ大名”ですね。
先祖が近江源氏の名族ゆえの厚遇か? 
 しかしながら、山崎氏がやり残した丸亀城の未完部分を完成させたのは京極高和で、以後200年余り丸亀藩を繋いで明治を迎えました。
 
 
 
 
 
 丸亀城を出て、市内の一軒の店に寄って行きます。
讃岐を廻る今日の目的の一つ、『讃岐うどん』の食べ歩きです(^-^;
事前に調べた情報で選んだ店は『讃岐製麺所』でした。
TVや映画に影響され過ぎかも知れませんが、“讃岐うどんらしい”通が喜びそうな店ですよね。
 
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 店内の写真撮りは自粛しましたが、外観にマッチした“期待を裏切らない”店内でした。
店は職人気質な(?)ご主人と、テキパキした奥様の老夫婦二人でやってる様で、これもドラマ仕立てなキャストですね(^-^;
 独特な緊張感を持ちながら、かけうどん中盛(1.5玉)を注文します。
すぐに丼に盛られた麺を渡され、つゆはセルフでサーバーから注ぎます。
薄口しょうゆの透明な出汁ですね。
ここまでの値段は\230、これにトッピングの大きな天ぷらが一個\50で、必要なだけ取って載せます。 刻みネギは無料です。
 
 食べながらふと目に留まった小麦粉の袋、うどんの原料の薄力粉ですが、なんと三重県産『あやひかり』を使っています。
うどんに適した小麦らしくて、我が家でも手打ちうどんを作る時には使っている粉です。
 
 肝心の味の方ですが、期待通りにコシのある、喉越しの良い“いつもの讃岐うどん”でした。
クルマに戻ってから無言で食べてた奥さんに感想を聞いて見ると・。
うん美味しかったけど、ウチで作るうどんの方が美味しいだそうです。
日頃からっている事ですが、日本のソウルフードの蕎麦やうどんは、手間をかける程美味しいので、自前が一番ですね。
味に芸術性を求めるものでもないし、本場だからと言って特別な味を期待するのも間違ってるという事です。
 
 
 
つづく