岡山城を後にして25kmほど北西に走り、吉備高原の山間部へと入って行きます。
次の登城はちょっと毛色の違う、古代“大和王権”の頃の山城『鬼ノ城』へと向かいます。
この城跡が古代の山城であると認識されたのはごく最近の事で、それまでは単なる伝説の地だったので、今回が初登城となります。
日本100名城 №69 鬼ノ城 岡山県 登城日:2018.12.18

城郭構造 古代山城(神籠石式山城)
築城主 (推定)大和朝廷
築城年 (推定)7世紀後半頃
廃城年 不明
遺構 城門、角楼、石塁、土塁、水門、敷石
指定文化財 国の史跡「鬼城山」に包含
再建造物 城門、角楼、土塁
所在地 岡山県総社市黒尾1101-2
鬼ノ城は岡山市の北西に隣接する総社市にあり、吉備高原の最南端にある標高400mの鬼城山の山頂部に築かれていました。
鬼城山には古くから伝承があって、吉備津彦命が温羅(うら)を退治した場所だと言われています。
温羅とは渡来人または西国から移って来た賊の親玉で、製鉄技術を持っていて、吉備一帯を支配しました。
温羅は怪力の大男で、大酒飲みだったそうで、吉備の民を苦しめたので、民は大和の王にその窮状を訴え、王は吉備津彦命を派遣して退治させた…というものです。
つまり、『桃太郎伝説』の原型な訳ですね。
*温羅の弟の名は王丹(おに)だそうです(^-^;

狭くて長い山道を登って行くと、広い駐車場が完備されています

駐車場の横にはガイダンス施設(ビジターセンター)があって、先にここで予習をします

険しい山の山頂部に一重の土塁を巡らしたのが、基本構造の様ですね

復元されている西門の模型 意外にちゃんとした櫓門です

土塁は一周すると2.4kmだそうで、かなり広範囲です 常住ではなく詰め城でしょうが、軍民、老若男女問わず全員が籠る想定なんでしょうね
しかし、伝説には常に“隠された真実”があります。
吉備津彦命は史実(といっても古事記ですが)では、崇仁天皇の命で“吉備国”を征伐した人になっています。
吉備は筑紫や出雲と並んで大和王権を脅かす勢力が栄えた国で、特に吉備は何度も征討を受けているので、大和に従属後も何度も反乱の挙兵をした様です。
その戦いの中で、吉備の勢力が籠って戦ったのが鬼ノ城ではなかったのか? …というのが登城前の漠然とした思いでした。

さっそく城址に登って行きます 持ち時間1時間ほどで2.4kmはちょっと無理かな?

すぐに右手に木橋が現れ『学習広場』となっています

先端まで行ってみると、城壁復元部分が見渡せる様になっていました。 展望台ね。

道端の藪には、遺構らしき石積みが散見されます 発掘調査は終わってるみたいですが、まだまだ眠ってる遺構が有るのかも
鬼ノ城にはその後平安時代まで山岳寺院が営まれていたそうですが、人の痕跡はそれまでで、以後は城砦に活用される事もなく、山林に還っていた様です。
それが城址として陽の目を見たのは、なんと1971年の事で、ある学者さんが神籠石の石列と土塁痕、水門などを広範囲で発見し、古代の“朝鮮式山城跡”の可能性を見出した事によります。
7年後の1978年には大規模な学術調査団が入って、山頂の至る所で多くの遺構が発見され、大きな話題になりました。
1994年からは発掘調査も開始され、全貌が明らかになるとともに、出土品から年代の特定もなされて、7世紀の大規模な古代山城である事が確定すると、2006年に選定された“日本百名城”のひとつに選ばれています。
その後、土塁や城門が復元整備され、一部の復元建物も建築されて、一般には馴染みの薄い古代の城郭がイメージしやすくなりました。

土塁が見えて来ました 高さは4~5mくらいかな? 内側の半分くらいまで石垣を積み、それを包む様に粘土に砂礫と藁を練り込んだ土を搗き固めて、直立に近い壁面を作っています 遮敵効果は高そうです

復元された西の門の建物(城内側)矢を射る為の武者走りもあって、中世の城の土塁上と変わりません

城門の基壇は石垣で固められています 柱や梁が角材なのは、時代からして不自然な感じ…

表面は手斧仕上げで、それらしくは見えるのですが

多くがまだ解明されていない古代史の浪漫を感じる城なのですが、鬼ノ城にはもうひとつ大きな謎が有って、『誰が、何のために造ったか?』という肝心の部分がまだ解明されていないのです。
類似する古代山城としては、対馬の金田城、福岡の大野城、香川の屋嶋城などが有名ですが、これらは大和王権が国家事業として築いた城で、北九州から瀬戸内沿岸に12城有った事が文献で明らかになっています。
その目的は、大陸勢力(主に唐)の侵攻に対する備えであり、築城は天智、天武期に集中しています。

城門の外側より 狭間は無いので、上のデッキに掛けてある盾の隙間から矢を射るのでしょうね 石落としの様に直上からの攻撃構造はありませんでした

復元されてる土塁は150mほどですが、まだまだ先まで復元するのかな?

内側が低くなる門の見ない側は後の世で言う“雁木”になっていました 葺石には花崗岩の割石が使われていて、この割る技術が大陸の先進技術だった訳ですね

こんな急斜面の山城では、丸い河原石の投石が有効なのですが、探しても転がっていませんでした
7世紀前半の朝鮮半島では百済vs新羅の戦乱が続いており、新羅を冊封国とした唐がこれに加担して百済を攻めると、百済の保護国でもあった倭国の大和王権は救援のため大軍を派遣して戦いましたが、“白村江の戦”で大敗してしまいます。
百済はこれで滅亡し、大量の亡命者を載せて帰国した倭軍でしたが、友好関係を維持していた唐との関係が壊れてしまったため、唐の倭への侵攻も有り得ると危機感をもった天智帝(当時中大兄皇子)は西国の防備を固めさせます。
それが前述の12城の築城であり、防人制度でもあった訳ですね。
この築城には亡命した百済の技術者が活躍したので、近世の学者さんによって“朝鮮式山城”とカテゴライズされています。

石畳の葺石はだんだん省略されて行きます この辺りは斜度もきついので、切岸構造だったのかも知れません
この城の為に、トレッキングシューズ持って来て良かった(^^;

石仏の祠の様なものは、後の寺院の名残りかな?

山の谷間の部分の土塁には基底に必ず石が積まれています

雨水での崩落を避けるための構造ですが、内側に水を貯めて生活用水に利用する為の“水栓”でもあったのでしょう

話を鬼ノ城に戻して、ところが鬼ノ城はこの12城の中に含まれておらず、築城に関する経緯がまったく不明なのです。
これがまた、浪漫ですよねぇ(^^;
また、こうした出自不明な古代山城は西日本で16城も発見されており、これがまた面白い所です。
12城でも半数の6城は遺構が発見されていないか、場所すら解らないほど昔の事ですから、無名の山城は16どころではなく、最低でも30は有った…と考えるのが自然な気がします。

高石垣が積まれた見晴らしの良い場所に出ました 当時は吉備の中心部からはるか瀬戸内まで見渡せた事でしょう

石積みの高さは10m以上あります 復元…でしょうね

岩盤質の山でないと、なかなかこうは行きません

では最後に、鬼ノ城はなぜ造られたかの個人的な考察です。
僅かな時間で一部分を見ただけで語るのはとても憚られる事なのですが、こうして見て来ると、大きく二つのストーリーが思い浮かんできます。
【地方豪族への増設賦役】
唐の大軍の侵攻に備えて、12の山城を築いた天智帝ですが、その数では充分と言えず隙だらけです。
かと言って国庫には限りがあるので、分布を補完する城の増設をその地の豪族に課した可能性ですね。
幸い技術者は手が空いているので、資材と人夫の徴発が課題ですが、挙国一致の国難対処と考えれば、少なくとも遠い東国から兵士の派遣(防人)を受けている北九州の豪族は応じざるを得ない状況です。
【地方豪族独自の築城】
唐の大軍の侵攻に備えて、12の山城を築いた天智帝ですが、唐との国交は比較的早くに回復し、国難意識は沈静します。
しかし、朝鮮半島で戦い、朝鮮式山城の有用性を認識した豪族達は、自己の安寧の為に独自の詰め城を持つに至った可能性です。
12城築城の知見を元に西日本に最初の築城ブームが訪れた…のかも知れません。
しかし、こうした動きに危機感を持った大和王権は、土地と豪族を切り離す“中央集権”へと大きく舵を切ったので、間もなく城の概念は廃れました。

天智帝の想定としては、元寇と同じく北九州が戦場の想定だった様ですね もし畿内が直接狙われる様なら、海が狭くなる馬関と備讃瀬戸で抗戦する構想に見えます

どっちがどうと言えるほどの材料も無いので、鬼ノ城は今後に九州などの古代山城を訪れる際の見方のベースにしたいと思いますが、この時代に足を踏み入れてしまうと、抜けられなくなる危険性を感じますね(^^;
知識と定説の少ない古代史は歴史浪漫の宝庫ですから。


つづく
次は江戸時代に戻って福山城を訪ねます