姫路を出発するのが遅くなり、赤穂に着いたのはもう4時を過ぎてしまいました(^^;
日没までもう僅か、この城は駆け足になってしまいます。
 
 
日本100名城 №60 赤穂城 兵庫県 登城日:2018.12.17
 
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 別名           加里屋城、大鷹城
 城郭構造     変形輪郭式平城
 天守構造     天守台のみ
 築城主    岡光
 築城年         1466年(文正元年)- 1483年(文明15年)
 主改修者   池田長政、浅野長直
 主城主      池田氏、浅野氏、森氏
 廃年          1873年(明治6年)
 遺構             石垣、堀
 指定文化財   国の史跡、名勝(本丸庭園、二の丸庭園)
 所在地      兵庫県赤穂市上仮屋1424
 
 
 駐車場に着いてみると、隣接する歴史博物館の入場時間が4:30までとなっています。
初登城なので、とにかく概要を抑えないと と、博物館を先に見せてもらいます。
そして閉館に追い立てられる様に外へ出て、城址に入って行くと、なんと本丸の出入り口の門も閉門時間が4:30で、係員が門を閉めてる所でした(*_*;
 
 
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無料駐車場と奥にある歴史博物館 4:30閉館はちょっと早いなぁ
 
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清水門の間近に見える二ノ丸東北隅櫓台 まだ復元されて間もないですね
 
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東外堀と三ノ丸石垣 花崗岩で石粒が揃っています
 
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低地の平城ですから、石垣は“壁”であり、内側は土塁になっています
 
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断面はこんな感じ
 
 
 赤穂城があるのは赤穂市街の南側で、もう瀬戸内海の干潟といった立地です。
ですから、中世に城が置かれる様な場所ではなく、室町中期の赤松満祐の臣:岡光広が建てた加里屋城は北の外れであり、江戸初期の大名:池田長政(輝政の弟で赤穂を分地された)の大鷹城も赤穂城の三ノ丸にありました。
 
 では実質赤穂城を建てたのは誰か?と言えば、赤穂池田家廃絶後の正保2年(1645)に移封して来た浅野長直なのです。
 
 浅野長直とは長政の三男:長重の長男で、広島浅野家の分家にあたります。
それまでは常陸笠間藩53千石でしたが、石高そのままで赤穂に移って来ました。
 長直は外様ながら関東に領地を得て幕府の要職を歴任しており、駿府城城代、江戸城西ノ丸普請、大坂城加番を勤めています。
つまり、優秀な“使える藩主”だった訳ですね。
 
 そんな職務で巨城を見て来た長直ですから、赤穂に入ると“石高に相応しい新城を”と幕府に築城申請し、これが異例にも即日認められます。
 大鷹城は陣屋に毛の生えた程度の城だし、長直のこれまでの貢献に報いる判断も働いたのでしょうかね。
 
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赤穂城縄張り 旧城である三ノ丸に隣り合わせ、輪郭式の本丸、二ノ丸が整備されました。 形が五稜郭に似てるのは、常に二面の城壁から射撃できる(十字砲火)鉄砲戦を想定しての思想から つまり最新式の形です
 
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赤穂城古写真(明治初期) 南から二ノ丸を観た図で、潮見櫓が見えますが、他に建物は見当たりません
 
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三ノ丸には武家屋敷も整備中ですが、中の見学はできません
 
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二ノ丸門跡を入るとすぐにある大石頼母屋敷門(復元) 頼母は内蔵助の大叔父で、長直が最も信頼する家老でした。 招聘された山鹿素行もこの屋敷に住んだそうです。
 
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日暮れが近いので、内堀を渡り本丸へと急ぎます
 
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本丸大手門ですが、ここも4:30で閉じられるとは思いも依りませんでした(*_*;
幸い『10分だけお願いします』と頼んだら、快く延長してくれました。ありがたい(^^♪

 
 しかし、長直の描いた赤穂城は石高からの常識を遥かに超える大規模なもので、縄張りには著名な軍学者の山鹿素行が招かれ、当時最新の城郭が設計されました。
 
 大名が身の程を越えた城を持つと、自ずと増税になり、藩政は乱れるという事例は数多ありますが、幕府はそれを知った上で承認してしまいます。
その理由は、長直に幕閣への根回しと増税せずとも原資を稼ぐシッカリした財政プランが有ったからなんですね。
 
 そのプランとは、ズバリ“塩”です。
赤穂はそれまでも塩の産地でしたが、瀬戸内でも干満の差が大きい土地である事に眼を付けた長直は、入封と同時に“入浜式製塩”を導入すべく塩田を大規模に拡張しています。
 それまでの塩田方式は“揚浜式”と呼ばれ、砂を均した塩田に手桶で海水を汲んで撒いて行く方式で、たいへんな重労働でした。
戦後の帰還兵の若者を15名雇っても、月に20俵ほどの塩しか採れません(^^;
 “入浜式”とは、満潮時に海水が自然に塩田に流入する方式で、労働力を激減させる画期的な方法でした。
 
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本丸内で目立つのがこのシッカリ造られた天守台
 
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時代的にどれだけ本気だったかは判りませんが、造ってたら財政破綻は必定だったでしょう
 
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本丸には御殿が所狭しと建っていた様で、建物は有りませんが基礎の間取りが復元されています
 
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庭園は近年の発掘調査で現れたもので、忠実に復元され国の名勝にもなっています
 
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本丸を出る頃には随分暗くなってきたので、三ノ丸はカメラの露出を上げて廻ります
 
 
 それまでの製塩農家1戸あたりが持つ塩田の面積は300坪程度でしたが、“入浜式”の赤穂の塩田村では平均6000坪と言いますから凄いもんです。
 こうして大増産された赤穂の塩は市場を席巻し、最盛期は日本全国の需要の7%を占めたそうです。
 
 塩で得た資金で借入を返済する形で築城は進み、5年後の寛文元年(1661)には完成します。
赤穂入封をスタートに、築城計画と資材調達、資金計画の塩田開発が同時進行で進います。
 卓抜した藩主でなければ慎重論に押されてやり通せない大事業ですから、長直がいかに聡明で信頼された藩主であったかが判ると同時に、赤穂への移封自体が用意周到な計画的なものだった気がします。
 
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三ノ丸は市街化されていましたが、赤穂城復元の気運の中で用地の買い取りが進んでいます。 現在は更地が多いけど、まだ民家や畑もチラホラ
 
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大石内蔵助屋敷跡に建つ大石神社 城復元の火付役けとなったのは、赤穂浪士人気に乗って屋敷跡が国の史跡になった事です。 大正10年の事でした。
 
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境内参道に建つ四十七士の石像
 
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勿論ちゃんとした銅像もあるのでご安心を(^^;
 
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大石屋敷はありませんが、長屋門だけは現存していて、当時を偲ばせます
 
 
 しかし、特許法が無いこの時代、入浜式製塩法は瞬く間に瀬戸内一円に広がり、赤穂の優位性は無くなって行きます。
 作事の資金も思う様には調達出来なかった様で、築城された15基の櫓台すべてに櫓が建つ事はありませんでした。
また本丸の天守台も天守の無いまま維新を迎えています。
 
 
 赤穂と言えばどうしても“赤穂浪士”となりますが、刃傷事件の長矩は長直の嫡孫であり、赤穂浅野家は356年で廃絶となってしまいます。
 跡には下野烏山藩から譜代の永井直敬が33千石で入りますが、直敬は寺社奉行~若年寄を兼ねた藩主であり、無理があったのか、僅か5年で信濃飯山へ移っています。
 
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三ノ丸大手門と番所 櫓門の位置から見ています 左折れの正統な枡形門です
 
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櫓門は有りませんが、外側の高麗門は復元されています
 
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高麗門と大手隅櫓が復元されたのは昭和30年の事で、現在でも唯一の櫓建物です
 
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門外にある立派なお店『巴屋』は和菓子屋さんで、塩味饅頭の製造元でした。 ありゃ、銘菓が姫路城と同じだ(^^;
 
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この後は岡山まで移動してホテル泊です
 
 替わって入った森長直は改易された津山藩森家の一族で、家名存続措置で備中西江原藩2万石を領していましたが、同石高での移封です。
 
 森家は明治維新まで13165年にわたり赤穂を領しましたが、やはり2万石では城の負担が大きく、塩田の再興に活路を求めるものの藩財政が好転する事はありませんでした。
ちなみにこの赤穂藩、岡山藩に従って姫路城攻撃に参加しています。
 
 
つづく
 
 
*今年もいよいよ大詰めとなりました。
4に定年退職し、気楽な趣味三昧(広く実益を兼ねた趣味ですからなんとか成り立つ)の毎日ですけど、サラリーマン時代を懐かしく思う事も無い、やりたい事だらけの毎日で、ひとつずつ実行を重ね形になる事でやり甲斐や存在意義の様なものを満たせています。
まだ数年はこんな感じで行けるんかな(^^;
ただ城歩きは単身赴任期の様には行かないので、関東の負債(未投稿)返済も思うに任せません。
まぁ来年以降ぼちぼちやって行きます。

皆さま良いおを迎えてください🎍