明石城から45分ほどで姫路城に到着です。
 
 平成修理が終わった直後は“白過ぎ城”と言われた天守も、だいぶ落ち着いた色合いになっていて、観光客もそう多くは感じません。
ただ、やっぱり明石には居なかった中華系の人達が目立ちますね。
 
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高速のインターを降り、西向きの通りに入ると見えて来る御城 まだ5kmくらいありますが…
 
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駐車場近く 通り掛かった京都ナンバーのおばちゃんが路駐して必死に写真撮ってました
 
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桜門前の土産店の様子は以前とずいぶん変わりました 20年くらい前の対比ですが(^^;
 
 
 さて、広大で見どころだらけの姫路城を僅か2時間半の見学で語るのは土台ムリなのですが、そこはテーマを絞って見て行きたいと思います。
前編では池田輝政の想いと巨城姫路城の役割です。
 
 
 
 
日本100名城 №59  姫路城  兵庫県 登城日:2018.12.17
 
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 別名       白鷺
 城郭構造   渦郭式平山城
 天守構造   連立式望楼型5重6階地下1階
 築城主     赤松貞範
 築城年      1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)
 主な改修者  黒田重隆・羽柴秀吉・池田輝政
 主な城主    小寺氏・黒田氏・池田氏・本多氏・松平氏・榊原氏・酒井氏
 廃城年      1871年(明治4年)
 遺構        現存天守・櫓・門・塀・石垣・堀・土塁・庭園
 指定文化財  国宝(大小天守と渡櫓等8、重要文化櫓・渡櫓27棟、門15棟、32
 所在地      兵庫県姫路市本町68
 
 
 姫路城が築かれたのは南北朝期に赤松氏によって設けられた砦が始まりと言われます。
 その後、地域の地頭であった小寺氏の領するところとなり、小寺氏の家人:黒田氏が城代として管理した頃から城の機能を拡充しました。
 
 しかし、現代に残る姫路城とは桁違いの小規模な城であり、別物です。
現存の巨城:姫路城を築いたのは、関ヶ原の戦後にこの地に配された池田輝政によるものがベースで、慶長14年(1609)の竣工でした。
 
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姫路城絵図 三重の堀に囲まれた広大な城で、内堀内の中枢エリアを内曲輪、中堀内の上級家臣屋敷エリアを中曲輪、下級家臣屋敷や町家・寺社が建つ外堀内を外曲輪と呼びました。 現存するのは内曲輪のみです。
 
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桜門から入って行きます 姫路城は天守以外の現存遺構がたくさん有り、見せる城だからか、余分な樹木が無くてとても見通しの良い城です 橋が木造なのも良いですね。
 
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橋を渡った少し奥にある大型の高麗門 門はこれのみで内側はもう三ノ丸広場(*_*;
そんな事はないでしょう?
 
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蔵書の復元CGより桜門周辺 帰ってから調べたところ、復元されてるのは第二桐門のみで、実際は門を三重に構えた複雑で厳重な枡形門です
 
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御殿のあった三ノ丸は、ガランとした広場で建物も有りませんが、維新後に陸軍の駐屯地となったため、練兵目的で全ての建物は撤去され更地化されたのだそうです
 
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二ノ丸に入る菱門内にあるイラスト看板で、往時の姿を偲びます
 
 
 
徳川家康と池田輝政
 池田氏は尾張の豪族のひとつで、輝政の祖父:恒利の代から織田家に仕えていました。
 輝政の父:恒興は武勇に優れ、数多の戦働きによって頭角を現して、織田信長の有力武将のひとりになります。
 
 本能寺の変の際には四国攻めの一将として領地の摂津尼崎に居ましたが、中国から戻った羽柴秀吉軍に合流して山崎の決戦でも活躍し、織田家の宿老に列します。
 清須会議では秀吉側について秀吉政権の樹立に貢献しますが、その後は少し距離を置いた様で、さほど優遇はされていません(美濃大垣13万石)。
自身は織田家家臣であるとの意識が強く、秀吉のあからさまな簒奪に思う所があったのでしょうね。
 
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下山里跡にある関所(入場口) 木戸賃\1,000は高いけど、その価値はあります
 
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すぐに現れる菱門は変形の櫓門ですが、火燈窓で飾られた美観と内部には枡形を持つ厳重さで、城の中枢部の入り口である事を意識させます
 
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内部には方形の三国堀があり、堀越しの天守群の写真は姫路城の最も見慣れた風景ですね
 
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次に控える“いの門”は二ノ丸の入り口で、此処から天守への道は上道と下道に分かれます
 
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二ノ丸は名前のイメージほど広くはありません。 用途は武者溜まりか?
奥に見えるのは上道へと続く“ろの門”
 
 
 秀吉と織田信雄・徳川家康が戦った“小牧・長久手の戦い”では去就が注目されましたが、結局は秀吉方で出陣し、長久手の戦闘で嫡子の元助ともども戦死します。
池田家の家督は二男の輝政が継ぎますが、つまり、徳川家康は輝政にとって“父兄の仇敵”な訳ですね。
 
 その辺りを上手く活用したい秀吉は、輝政を15万石に加増して東海道筋の三河吉田に配しますが、微妙な立場の他人を思い切って味方に引き込む餌としては何ともセコ加増幅です。
 
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“ろの門”を潜ると道はヘアピン状に右へ折れ、乾曲輪へ入る“はの門”へと登って行きます
 
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“はの門”は渡り櫓門でした
 
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内部の乾曲輪は敢えて言えば姫路城の弱点である北西部をカバーする曲輪で、多聞で強化されていました
 
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ここから見上げる無名櫓の唐破風にある瓦には、珍しく十字紋様が描かれています

 
 逆に家康はといえば、輝政の心情を察してか両家の関係修復に積極的に動きます。
政の正室:糸姫の体調が思わしくなく、実家の中川家に戻って居た事を知った家康は、次女の督姫を継室として輝政に嫁がせ、姻戚関係を結びました。
(督姫は北条氏直に嫁いでいましたが、小田原征伐後に離縁して戻っていました)
 
 この縁談には秀吉も大喜びで、配下の輝政が上手く家康の人質を得たと受け取っていた様ですね。
 
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乾曲輪からの道は左に折れながら登って行き…
 
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これまた櫓門の“にの門”へと続きます
 
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“にの門”というか、櫓の地階を通り抜けて行くと…
 
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乾曲輪と同様の小郭があります 梯郭の防備ですね
 
 
 しかし当の輝政はといえば、軽薄で肉親に甘く家来に渋い秀吉よりも、家康の武士としての懐の深さに魅力を感じていた様で、次第に家康親派へと傾いて行きます。
 置かれた立場からの合戦突入と結果の生死は兵家の常であり、個人的な怨恨が尾を引くタイプの性格では無かったのでしょうね。
 
 ただ、父:恒興を討ち取った永井直勝が5千石の知行なのを知ると、池田恒興の首は5千石の価値か!激しく家康にネジ込んだそうです。
永井直勝は後に常陸笠間で72千石の大名になりました。
 
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池田輝政画像と池田家系譜
 
 
 
姫路への大幅加増転封
 督姫と輝政の仲は睦まじく、なんと5男2女もの子供をもうけ、しかもみな無事に成人するのです。
 不憫にも離別させた娘と7人もの可愛い孫が居る池田家ですから、家康が大事にしない訳がなく、輝政との相互信頼も次第に醸成されて行きました。
 
 豊臣政権下での輝政は、地勢上豊臣秀次の与力大名であり、その為に朝鮮出兵も回避されました。(秀次が国内留守居担当だった為)
 秀次事件でも多くの妻妾が死罪となる中、池田家から嫁していた輝政の妹の若政所は助命されていますが、これも家康への遠慮からでしょうね。
 
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その郭の一角にさりげなく有る埋門が“ほの門”です 物置の扉みたいな感じにカモフラージュされてます
 
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“ほの門”を入るといよいよ本丸で、天守のエリアになります
 
 
 秀吉が死ぬと、輝政は武断派7将のひとりとして石田三成ら文治派と対立します。
そして関ヶ原。
 前哨戦の岐阜城攻略戦では織田家旧臣の強みを生かして織田秀信の降伏を促し功を挙げますが、本戦では後詰めに回されて家康本陣の後方で布陣し、毛利勢の万一の約束違反(東軍への攻撃)に備える形で終始し、一兵も損なう事無く合戦は終了しました。
 
 この陣立て配置は紛れもない家康の輝政温存策であり、戦勝後の国内統治体制では輝政をキーマンと考えていたからでしょう。
 
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 戦後の論功行賞で各大名の領地と石高がシャッフルされます。
内に野望を隠した外様の有力大名が九州・中国へと集められる中、輝政は播磨一国52万石で姫路へと配されました。(弟二人分を合わせ64万石)
 
 戦功と勘案すれば破格の評価ですが、その心は、姫路を西国の不穏な大名を監視する一大拠点とし、有事の際の橋頭保の役割を輝政が担う…という事ですね。
それには相応しい軍事力も必要なので、相応の石高という事です。
 
 それまでの姫路には木下家定(寧々さんの実兄)が居て、かつて秀吉が毛利攻めの拠点に改修した城を守っていました(2万5千石)。
 言わばチンケな田舎城でしかなかったのですが、輝政は着任すると直ちに姫路城の大改修に着手します。
 
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中に入ると乾小天守の真下でした
 
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姫路城の連立天守は周囲に小さな櫓が複雑に絡みついていて、壁だらけの超難解な構造です
 
 
 もちろん家康の全面的なバックアップが有っての事ですが、要求される能力は攻め寄せる西国大名の大軍を受け止めて、ここで足止めさせる事です。
 
 かくして着工から9年を経た慶長14年(1609)、姫路城の大改修が完成します。
渦郭式の三重の堀に囲まれた城域はほぼ2km四方に及び、中枢の内曲輪には梯郭式に高石垣が築かれ、現在に残る白亜の天守・櫓群が建ち並んでいました。
 
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それらの壁には“水の五門”と呼ばれる門があり
 
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天守の入り口へと繋がっていますが…
 
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道順を覚えるには、ドン・キホーテの出入り口みたいに、かなりの慣れが必要ですね(^^;
 
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西小天守の入り口から、いよいよ天守に入って行きます
 
 
輝政の死と池田家転封
 姫路藩主としての輝政の幕府での地位は盤石で、外様大名としては異例の正三位参議にまで昇進し、徳川家門に準ずる待遇を得ます。
 督姫が産んだ忠継には新たに備前岡山28万石が与えられ、その弟の忠雄にも淡路洲本6万石が与えられて、一族での石高は100万石に達しました。
 
 まさに順風満帆な中、輝政が姫路城で急死します。
死因は中風とされていますが、まだ50歳なので、好色ゆえの感染症とも言われています。
 
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左:池田利隆(享年32) 右:池田忠継(享年16) ともに輝政の後継にふさわしい器量の持ち主でしたが、若すぎる死が池田家の形を変えてしまいます
 
 
 家督は嫡子の隆利が29歳で継ぎました。
隆利は榊原康政の娘を室に迎えており、若くから藩政を補佐していた為、経験も人望もあって、良く大任を果たしますが、前妻の子という事では忠継に継がせたい督姫サイドや幕府の思惑もあった様で、過剰な気遣いの中で3年後には急死してしまいます。
 
 少し前に忠継も病死していた為、家督は隆利の嫡子で7歳の光政が継ぎますが、『僅か7歳の若年では輝政に求めた姫路での西国監視に能わず』…という裁定が下り、姫路池田家は因幡鳥取32万石へ減転封となってしまいました。
 
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池田家が分割移封となった鳥取城と岡山城 ともに32万石の64万石は30%の減封です

 
 
督姫毒饅頭事件
 輝政が急死して、隆利が家督を継いでから僅かの期間で、忠継、督姫、隆利と相次いで死去したため、巷で誠しやかに囁かれたのが毒饅頭の陰謀説でした。
 
 隆利の姫路城主就任を祝う席でのこと、督姫は実子の忠継を姫路城主にしたいが為、利隆の暗殺を企てて、毒を塗った饅頭を持参して利隆に勧めました。
 隆利は饅頭を手にしたものの、督姫の後ろに控えた女中が掌に「どく」と書いて隆利に見せたため、食べるのを躊躇しましたが、同席していた忠継は事態を察知して、咄嗟に利隆の饅頭を奪い取って食べ、死亡したそうです。
 実は忠継は自領の岡山を代行して治めてくれ、優しく接してくれる長兄の隆利を慕っており、騒動の原因となる自分を滅する事で利隆を守ったのです。
督姫も自らの行為を大いに恥じて、饅頭を食べて忠継の後を追った。
 
…というものです。
 
 しかし史実では、督姫が死んだのは慶長20年(1615)2月4日で、場所は京都二条城で、忠継が死んだのは少し遅れた2月22日で、死因は疱瘡、場所は岡山城内とされています。
 池田家はその後利隆系の岡山藩と忠継系の鳥取藩に分かれますが、両藩の交流は親密で、藩史でも毒殺説を否定しているそうで、念のため、近年になって忠継の墓を移転する際に遺体の調査が行われましたが、毒物は検出されはなかったそうですよ。
 
 
 
つづく
 
 
後編では姫路城を仕上げたもう一人の主役:本多忠政を中心に掘り下げます。