織田信長の伊賀侵攻と伊賀忍者達の戦い、最終回です。
 
 
比自山砦の放棄
 10月1日未明の長岡山への夜襲は織田軍に大きな衝撃を与え、“土豪の寄せ集めに女子供まで加えた烏合の衆”は“油断ならぬ恐るべき強敵”へと認識が変わります。
 蒲生氏郷も堀秀政も、その日は襲撃に備えて自陣を固めた“逆籠城”の形を余儀なくされ、筒井順慶も大きく後退して備えました。
 
 翌10月2日も動きは無く過ぎ、午後になって壬生野から丹羽長秀・滝川一益の大軍が到着し、夕刻には北畠信雄の軍も到着して全軍3万数千、ようやく活況が戻って来ました。
 その夜も比自山からの襲撃はなく、篝火は赤々と燃えているものの、ひっそりと静まり返っていたそうです。
 
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伊賀各地を掃討した織田軍の諸隊は、最後は柏原城に集結し最終決戦に臨みました
 
 
 明けて10月3日、早朝から織田軍の総攻撃が再開されます。
3万余の大軍は山麓の谷を覆い尽くし、前回の総攻撃とは打って変わって伊賀忍軍の反撃を警戒しながら、手探りでジリジリと山頂に迫ります。
 
 しかし、中腹まで来ても一切の反撃は無いばかりか、敵影を見掛ける事も無く、砦もひっそりと静まり返っています。
これはおかしいな…』何か大掛かりな罠か?とより警戒を厳重に進んで昼前にようやく山上の一郭に到着しましたが、なんとそこは伊賀兵は一人も居ない“もぬけの殻”でした。
 想定外の状況に顔を見合せながらも、上の郭へと次々に進んで行き、遂に山頂の主郭まで乱入しましたが、結局全山人子一人居ない“空き城”になっていました。
 
 伊賀の豪族達と農民やその家族、1万人近くが一夜のうちに忽然と消えた訳ですが、その最大の理由は籠城側の兵糧難にありました。
 9月末の採り入れ直前に籠城となった為、伊賀の豪族達にも兵糧の蓄えは十分でなく、持ち込めた糧食はさほど多くはありませんでした。
 そこへ緒戦に敗れた豪族達が逃げ込み、新たに加わる者も予想外に多かったので、戦いには有益であっても兵糧はあっという間に底をついてしまいます。
 
 困った豪族達が評議の末に決断したのは、“比自山を棄てて名張勢(柏原城)に合流して、最後の一戦を挑む”、“女子供や農民などの非戦闘員は大和などの地に逃れて戦難を避ける”という対応でした。
 
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『ドロン!』一夜にして伊賀忍軍が消えた比自山砦
 
 
 『万に迫る敵勢が逃げ去るのに、我らは誰一人気付かんとは…』 総大将の北畠信雄も苦笑するしかありませんでしたが、伊賀勢の隠密行動の巧みさに加えて織田軍の各陣営が防備に力を割いて囲みが疎かになっていたのも大きな理由でした。
 
 しかし、ここまで良い所の無い筒井順慶などは兵に檄を飛ばし草の根分けても探し出し、首を刎ねろ!と厳命したため、その後の捜索で発見され殺いられる者も多く、特に大和に潜伏した者に被害が多く、殆どが負傷兵と女子供だったと言います。
 
 
 
国見山砦も玉砕
 同じころ、種生の国見山砦の攻防も山場を迎えていました。
この砦は伊賀南東部の土豪達が居館を追われて集まり、築城した急造の砦で、約5百の兵が籠っていました。
 国見山は前深瀬川の上流にあり、深い浸食谷に囲まれた険しい山頂には草蒿寺の伽藍が林立した霊場でしたが、その境内の最高所に砦は構築され、比土の今中将監、比奈地の下山甲斐守などを中心に、最後の死に場所と決めて激しい攻防戦が展開されていました。
 
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国見山砦遠景 檜に覆われた丘の上に遺構は眠っています
 
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砦は深い谷に囲まれた要害の地にある、草蒿寺の境内に造られました
 
 
 種生城~国見山砦を攻略していたのは滝川雄利、長野左京亮、吉田兵部などの北畠信雄麾下6千の大軍で、攻防は数日に及びましたが衆寡敵せず、 荘厳を極めた草蒿寺の伽藍が焼け落ちると玉砕してしまいました。
 ここでも捕らえられた者達は悉く処刑され、泣き叫ぶ女、子供の声が山深い谷間にいつまでも木霊したと言います。
 
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戦火に焼け、廃寺となった草蒿寺跡 『徒然草』で著名な吉田兼好が晩年を過ごした寺とも伝わります
 
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兼好法師の墓と言われる“兼好塚” 吉田兼好の生涯には諸説があり、真偽のほどは定かになってはいませんが。
 
 
柏原城は兵糧攻め
 国見山砦の玉砕で、伊賀忍軍の抗戦拠点は南部の名張郡にある柏原城のみとなりました。
柏原城は赤目口の豪族:滝野十郎の居城ですが、近郷の土豪達はもとより最終決戦の地として伊賀各地から戦意を残した勇士達が駆け付け、名の有る土豪だけでも4百人、その郎党を加えて2千以上の兵が死に場所を求めて集結していました。 
 
 その中にはもちろん百地丹波守の姿もあり、その指揮のもとに全軍がひとつになり、戦意はきわめて旺盛でした。
 織田信長という超巨大な敵に直面して、個人の意思を尊重して四分五裂していた伊賀忍軍でしたが、“いかに死ぬか”という共通認識の元に再度結集したのです。
 
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柏原城遠景 赤目の山の尾根の先端になる、左手の小丘が城址です
 
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二重土塁に囲まれた50m四方ほどの単郭の小城ですね。 2千の兵が籠り有効な戦いをするには、城域を広げて周囲に幾つかの砦を設ける必要がありそうです。
 
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そんな砦のひとつだったと思われる勝手神社
 
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案の定、境内に城址碑がありました
 
 
 彼らが“閻魔大王への手土産に”と狙ったのは小波田の桜町中将城に着陣した総大将:北畠信雄の首でしたが、それを察してか信雄軍は城を容易に出る事はなく、逆に奇襲に備えて守りを固めました。
 
 続いて丹羽長秀・滝川一益らの軍が着陣したのは10月7日と言われ、攻囲する織田軍は合計3万でした。(他の兵力は落ち武者狩りに充てられた?)
 翌8日から全軍での総攻撃が始まりますが、伊賀忍軍の勇猛さと百地丹波守の采配は絶妙で、囮部隊を出して織田軍を引き付けては本隊が叩く戦術で、数回の戦闘で織田軍は千5百もの兵を失いました。
 『数に任せた力攻めでは損害が大きくなる…』これを見かねた丹羽長秀は信雄に進言し、各隊は柏原城を遠巻きに包囲し、決して討って出ない 兵糧攻めへと戦術を転換しました。
 
 
 
信長出馬と森田浄雲の挙兵
 兵糧攻めで戦闘が膠着すると、信雄は織田信澄を信長の元に遣わし、戦況を報告します。
同時に御出馬を要請された信長は直ちに安土を発ち、10日の夕刻には桜町中将城に着陣しました。
 
 翌日、丹羽長秀と柏原城周辺を視察した信長は、兵糧攻めの持久戦を承認し、幾つかの指示をすると13日には安土への帰途に就きます。
その途中で事件は起こりました。上野から信楽街道を北上する信長を何者かが山中から鉄砲で狙撃したのです。
 
 弾は逸れて信長に当たらなかったので、そのまま何も無かったかの様に安土へと向かったのですが、事の重大さに肝を潰したのは織田側の諸将達で、何としても犯人を捕らえて相応の厳しい処置をしないと自分たちの首が危うくなります。
 即刻、近辺の諸郷の大捜索が始まり、少しでも怪しい者は有無を言わさず首を刎ねられて行きました。
 
 このアクシデントに困惑したのが、齢70を数える森田浄雲を中心とする阿波七郷の土豪達で、彼らは比自山を落ちた後に柏原城へは向かわず、荒木郷に身を潜めて戦が終わるのを待っていました。
これ以上の抗戦はせず、帰農してでも生き残る術を模索していたという事の様ですね。
 
 しかし織田の残党狩りが厳しく、追い詰められる事態になれば、敵わぬまでも一戦して死のうと、敢国大社に近い宮坂山に極秘裏に砦を築いているところでした。
 ところが、今回の狙撃犯探索の状況から建設途中の砦が発見されるのは時間の問題となって来たのです。
 
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一之宮砦遠景 阿波地区の土豪達は極秘裏にこの山上に砦を築いていました
 
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敢国大社門前から見上げる宮坂山 山頂ののアンテナ付近には単郭の遺構が確認できるそうです
 
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伊賀一之宮敢国大社 創建は斉明4年(658)と言われる古い神社で、伊賀忍軍の祭禮の場でしたが、この戦火に焼かれます。 再建には藤堂高虎が尽力しました。
 
 覚悟を決めた森田ら土豪3百人は砦に籠り、15日に探索に登って来た織田軍の小隊を襲って挙兵し、その報はすぐに信雄の陣に伝えられ、 『まだそんな連中が居るのか!』と驚いた信雄は直ちに秋山、芳野、沢の宇陀衆を中心とする兵3千に討伐を命じました。
 
 十倍の織田軍の攻撃に未完の砦では籠城戦法も叶わず、討って出た森田ら土豪達は一族郎党共々全員が討死にし、半日の戦闘で玉砕しました。
 
 
 
伊賀忍軍解体 柏原城の開城
 その夜、柏原城ではある作戦が敢行されました。
城外に居る里人を動員して敵陣の背後の山々で一斉に松明を焚かせ、新たな敵の出現!と混乱する織田軍の虚を突いて、決死隊が一気に信雄の陣になだれ込み、信雄の首級を挙げようというものでした。
 
 しかし、実際に周辺の山々では夥しい数の松明が焚かれ、異様な光景の演出はされたものの、幾多の戦場を潜り抜けて来た歴戦の勇将揃いの織田軍では、『忍軍の得意とする攪乱戦術だ!、そんな新手の勢力の出現など有り得ない』と動かず、出撃は諦めざるを得ませんでした。
 
 作戦の失敗よりも悲惨だったのは柏原城の求めに応じて松明を灯した里人達で、駆け付けた織田軍の手によって片っ端から首を刎ねられたそうです。
 
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神社の裏手300mに城址はありますが、看板類はあるものの、草刈りは行き届いていません
 
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虎口は空堀の土橋を渡って入ります
 
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すぐに一重目の土塁が有り、空堀を挟んで高い主郭の土塁が聳えます
 
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主郭へと入って行きます
 
 
 戦闘の無いまま睨み合いが続き、10月も下旬になると柏原城の兵糧も底を突いて来ました。 打開策もないまま評議の結果、兵糧の尽きる26日の夜を期して最後の突撃を敢行し、玉砕する事に決しました。
 
 これとは別に百地丹波守は独自の動きをしていて、旧知であった徳川家の武将:服部半蔵正成としきりに書を交わしていました。 
 その内容は想像の域を出ませんが、百地丹波守の真意としては戦意高く抗戦を貫く一方で、このまま伊賀忍軍を絶やしてしまう事には断腸の思いがあり、多少なりとも継承者が生き残る術を模索していたのだと思います。
 
 一方の服部半蔵はと言えば、今は伊賀を出て家康の一部将として仕え、忍軍に影響力は無い身ながら、かつての上忍三家の正統な後継者であり、伊賀忍軍の絶滅を座視できない葛藤があります。
 また、それまでは雇用契約にも多額の金銭を要した伊賀忍者の特に優秀な者を相当数確保出来たなら、今後の徳川家にとっても有用である…チャンスである事に気付いています。
 
 その思いは家康に伝えられ、家康から信長に何らかの働きかけがあって講和の道筋が開かれた様に思うのです。
 
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郭内は完全な平坦地ではありませんが、3mあまりの土塁にグルリ囲まれています。
やたら“マムシに注意”看板が立っていますね(^-^;
 
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お滝井戸 郭内の井戸にはもれなく“美女が身を投げた”伝説が付いています
 
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東の尾根側は深い堀切で遮断していますが… 鉄砲の射程内の距離です
 
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城外にある古い墓石群は滝野一族のものか? もう誰もお参りしないのか、荒れ放題でした
 
 
 この新たな展開は柏原城に籠る豪族達にも寝耳に水で、大きな反発があった事は間違いないでしょうが、そこは百地丹波守が自らの口で真意を説明し、説得に当たったのでしょう。
『侵略者に降る事無く、華々しく散るのは容易い。 降れば我々の身は無事ではあるまい、降参して首を刎ねられるのは恥辱の最たるものではあるが、それで次代を担う若者達が助かり、伊賀忍軍を継承できるなら、我々は甘んじて恥辱を受けようではないか。 それが父祖の志に応えるものだ…』という感じか。
 かくして26日朝、大倉五郎次という猿楽師が織田軍の講和の使者として柏原城に入ります。
 
 信雄が示した講和の条件は、速やかな城の明け渡しと、すべての豪族の伊賀国内からの退去という予想外に緩いものでした。
しかしそれは、あくまでも信長の口約束ですが
 
 間もなく、籠城した豪族達は郎党と共に城を出て、国外へと落ちて行き、ここに第二次天正伊賀の乱は終息しました。
 
 
 
乱後の伊賀忍軍は
 平定された伊賀国4郡のうち、阿拝、伊賀、名張の3郡は滝川雄利に、そして山田郡は織田信兼に与えられ、新たな支配者として統治を始めます。
 しかし、この戦乱では伊賀国の総人口9万人のうち軍民問わずなんと3万人もの民が織田軍により殺害されており、円滑な復興など到底見えない状況でした。
 
 当初から参戦せず和平を選んだ土豪達、抗戦して国外に去った土豪の郎党達はいずれも帰農の身とはなりながらも忍軍の誇りは失わず、容易に従えるのは困難でした。
また両者間の遺恨からの抗争も多発して、領土経営は多難を極めました。
 
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地質が悪く収穫の上がらなかった伊賀盆地も、現在は良質の米どころです。 農民達の頑張りを積み重ねた結晶ですね。
 
 一方で、国外追放となった土豪達は、信長の命により伊賀を出た途端に捕縛され、殺害される者が多かったそうです。
 運よく捕まらなかった者も、周辺はすべて織田領ですから身の置き所は無く、遠く毛利領や武田、上杉領を目指して逃避行を重ねます。
 
 苦難の旅では路銀が尽きて妻子を娼婦にする者、石川五衛門の様に盗賊に身を落とす者もおり、旅の途中に病を得て果てる者は数知れずでした。
 そんな中で、服部半蔵に救われた者は約3百人と言われ、徳川家中に身を移して忍者として活躍し、術を将来に繋いで行きます。
それだけが伊賀を守るために戦い、心身に傷を負った人達の唯一の希望でした。
 
 
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伊賀と言えば忍者、忍者と言えば伊賀。 芝居や物語の中で脚色されて、少し違う形にはなっていますが、原型は伊賀の里と民を守るために技を磨き、戦い、死んでいった人達の姿です。 そんな生き様に共感して誇りに思う地元の人達によって、忍者の心は現代まで受け継がれています。
写真:伊賀忍者集団『阿修羅』HPより借用
 
 
 伊賀平定から2年後の天正10年6月2日、織田信長が本能寺に斃れると近畿の大名達は自身の生き残りに忙殺され、伊賀忍軍残党への引き締めは有名無実となって行きます。
 その頃から各地に散っていた豪族達が次々伊賀に戻って来ます。 彼らは旧領に居住して農民として暮らしますが、名実ともに村の顔となり、多くが名字帯刀を赦されています。
きっとその中には名を変えた百地丹波守や藤林長門守が居たのかも知れませんね。
 
 
第二次天正伊賀の乱 完
 
追記
 伊賀忍者の詳細な記録は現存せず、口伝による伝説的な話が散在するのみです。 その為に歴史的な事件の帰趨や関わった人物についての解釈も多種多様で、相反する話が常に出て来ます。
 今回、第二次天正伊賀の乱を採り上げて掲載しましたが、これはそうした諸説の中から、実際に現地を見て独断でストーリー立てしたものですから、これが史実だというものではありません。
高名な歴史学者や作家さんの見解と齟齬があってもご容赦ください。