戦国期の伊賀国は土地の土豪達による自治共和国の構造を貫いていましたが、織田信長の大規模侵攻でその体制は壊滅を余儀なくされます。
今回は3回に分け、その戦場と戦いぶりを辿って行きます。
織田軍侵攻
天正9年(1581)9月、織田信長は号令を発し4万7千の大軍勢で伊賀へと侵攻します。
まず幾つかの資料からその陣容を拾って見ます。
【織田軍侵攻ルートと戦場となった城砦】

南畿内方面の軍団長である北畠信雄が総大将で、補佐役である滝川一益、そして伊勢、近江、大和、紀伊の与力衆が勢揃いという感じですが、北畿内担当の丹羽長秀を加えており、北条、武田、上杉、毛利、長曾我部へ対峙する戦力以外は総動員といった感じで、信長の力の入れ具合が窺えますね。
ただひとつ不思議なのが浅野長政で、浅野家は織田家直臣だから参戦も有り得ますが、35歳のこの時の長政は羽柴秀吉の与力で、知行も数百石の侍大将に過ぎない筈です。
長政が城持ち大名になるのは2年後の賤ヶ嶽の戦い後(坂本城主2万石)の事であり、1万もの大軍の主将として初瀬口から攻め入る事にはちょっと違和感があります。
平楽寺評定
これに先立ち、伊賀の忍軍を構成する豪族たちは上野の平楽寺に集まり、対応を決める評定を開きます。
上忍の百地丹波、藤林長門、中忍12家の評議衆に平楽寺(僧兵)を加えての評定ですが、集まった面々の状況認識と思惑はさまざまでした。
織田信長はこの侵攻を短期間で成功裏に終える為に、すでに和戦両面から個々の豪族にアプローチしており、特に国境の難所に近い豪族には“所領安堵”を約しており、既に柘植の福地伊予守、玉滝の耳須弥次郎、島ケ原の増地小源太などが密かに安土に通じていました。

これに対し、先年の北畠信雄の侵攻(第一次天正伊賀の乱)に快勝した実績を持ち、国外の情勢に疎い伊賀中南部の豪族達には概して主戦論者が多く、“攻め来る者は敢然と討つべし”との建前論を展開します。
武家政権の鎌倉時代以来、伊賀国は土豪達が巧みに連携して守護(中央)の支配を無実化して来た歴史があり、父祖から育まれた自治意識を簡単には捨てられないのもまた道理です。
上忍の百地丹波守や12人衆筆頭の滝野十郎も、織田勢との戦力彼我をした時、勝算は万に一つも無い前提に立ちながらも、“父祖の名を汚さず、最後の一兵まで正々堂々と戦い、伊賀忍軍の名を後世に残す…”という方向でまとめざるを得ませんでした。
ただし、妻子領民のため名を棄てて和議を結び、子孫を残す…という主張にも理があり、全滅を避ける意味でも「元より一期の戦い、各々思いのまま心置きなく戦って散るべし」 という決議にしました。
たとえ及ばずとも一矢報いて伊賀忍軍の心意気を示すには、全員一丸となった戦略と戦術が必要ですが、得意とする団結力を敢えて捨てなければならなかったその心底は、悲壮としか言えませんね。

柏野城址に建つ芭蕉の句碑 討死にした中には芭蕉の祖父も居たそうです
かくして対織田戦は各豪族個々による和戦判断と地域や縁故によるグループ単位での抗戦となりました。
北畠信雄軍伊勢路口より来襲
9月27日、織田軍の先頭を切って伊賀に侵攻したのは伊勢松ヶ島の北畠信雄の軍1万で、前回と違い組織的な抵抗も無いまま、青山峠を越えて伊勢路に至り、内応していた城氏の居城に入ります。

これに対して伊賀勢は、掛田城の富増伊予守を中心に近郷の豪族を集めた5百の兵で天童山寿福寺に陣取りますが、到着した敵の余りの大軍に動揺が走ります。
信長からは「抵抗する者は女子供に至るまで撫で斬りにせよ! 城砦のみでなく寺社や村々もすべて焼き尽くせ!」といった苛烈な下知が下っており、言い換えれば“略奪や乱暴狼藉は思いのまま”なので、雑兵まで活気づく北畠軍の陣からは只ならぬ気配が発していたのでしょう。

翌28日、信雄は軍を三手に分け、織田信澄率いる3千が南の種生方面へ向かい、日置大膳率いる3千は北の比自岐、丸山城方面へと侵攻します。
残る4千は信雄自ら率いて西進し、阿保から美旗など名張郡東部を掃討して行きました。
伊賀忍軍はさしたる抵抗も出来ぬまま後退を余儀なくされ、沿道の村々の寺社仏閣はすべて焼け落ち、神官僧侶が悉く首をはねられて、そこに隠れていた里人は女子供達まで容赦なく殺傷されたと言います。
丹羽長秀、滝川一益は加太越えで柘植七郷へ
同じく9月27日、1万4千の最大戦力を擁する丹羽長秀、滝川一益の織田家宿老コンビは、これも内応した福地伊予守の案内で、上柘植の福地氏城へ入りました。
対する柘植の伊賀勢は一戦も交えぬ福地氏に唖然としながらも、取り敢えず後方の柏野城へと集結します。
一方、御代、川東などの豪族は中村丹後守を主将にやや南の壬生野城に集結し、準備万端整えて織田軍の来襲を待ち構えていました。



柘植口の織田軍も翌日から軍を二手に分け、丹羽長秀は柘植郷を焼き討ちしながら柏野城へ進み、まだ準備も兵力も整わない柏野城は半日ほどで落城します。
一方の滝川一益の軍は霊山山頂の霊山寺を焼き討ちし、大伽藍を灰燼に帰すと壬生野城へと向かいます。
この阿拝郡地域は山城が少なく、非戦闘員の村人達は直接山中へ逃げ込み、難を逃れる者が多かった様で、殺戮される人は少なかったのですが、僅かな食糧を持った老人や幼児が晩秋の山中で幾日か過ごす事は過酷で、斃れる者が相次ぎました。

壬生野城遠景 水田に囲まれた台地の先端にあります

だいぶ荒れてはいますが、水堀に囲まれた高い土塁を持っているのが判ります

壬生野城に集まった富田勝長、中村丹後などの豪族は伊賀忍軍でも精鋭揃いの5百人で、小勢ながらも「ひと泡吹かせん!」と意気軒高でした。
それが堅城で知られる壬生野城に籠ったため、歴戦の滝川軍も攻めあぐね、いたずらに兵力を損耗してしまいます。
丹羽軍が合流してもなお、落城には数日を要す激戦だったため、9月30日から始まった最大の合戦:比自山の戦いには両軍とも間に合いませんでした。

壬生野城から見える両城は直前に玉砕した城です 籠った城兵達は一部始終を見てた訳ですね…

蒲生氏郷の怒涛の進軍
北伊賀の甲賀口から南下したのは売り出し中の勇将:蒲生氏郷で、7千の兵を率いていました。
9月27日、こちらも内応した玉滝の耳須弥次郎に迎えられ、その日のうちにその先導でこの地域の豪族が集まった友田の雨請山砦に向かいます。

雨請山砦に拠るのはこちらも上忍・藤林長門守を中心に山門左門、山尾善兵衛ら勇将揃いであり、氏郷軍の鉄砲隊を中心とした猛攻にも怯む事無く応射して、一歩も引きませんでした。
けれど日が落ちる頃にはその矢弾も尽き、藤林長門守らは夜陰に乗じて砦を落ち、次の拠点である田矢伊予守城へと移りました。
翌28日、間髪入れずに進軍した氏郷軍は朝から猛攻を田矢城に浴びせ、ここでも一昼夜に及ぶ激戦が展開されます。
夜半には藤林長門守による本陣への夜襲が有り、氏郷を慌てさせた様ですが、指揮官を次々に失って朝までには大勢が決し、田矢伊予守城も落城してしまいました。

田矢伊予守城遠景 右手の山頂一帯が城址です


引接寺墓地の上に土塁が覗いていますが、郭内は藪が酷くてとても入れません

藤林長門守もここで討死にしたという説が一般的ですが、生き延びた説もあり、史実は判然としません。
名人:久太郎に救われた島ケ原
9月28日、北西の多羅尾口から侵攻したのは信長お気に入りの側近の堀久太郎秀政で、甲賀忍軍の多羅尾光弘を従えた2千3百の兵力でした。
甲賀小川郷で多羅尾光弘と二手に分れた堀軍は御斉峠を下り島ヶ原へと侵攻しました。

御斉峠から見下ろす伊賀盆地 標高差300mを一気に下る難所です
他の六口の軍と違い、多羅尾口の堀軍の進軍はいたずらな放火や殺戮を戒めた、粛々としたものでした。
それと言うのも、島ヶ原の土豪三十数家は日頃から縁の深い多羅尾氏の働きかけもあり、一致して不戦和睦へと大きく傾いている実情がありました。
前日の織田軍の苛烈な戦いぶりを耳にして一度は身構えた島ケ原の豪族達でしたが、堀軍の進軍を見て安心したのか、次々に街道に出て来ては秀政に降伏の意を示します。
お陰で島ケ原では一人の死者も一軒の焼失もなく、戦いは通り過ぎて行きました。

夕刻の島ヶ原の街並 伊賀で唯一無事だった地域です
下の者の身になって部下を使うので末端の者からも信頼され、“名人:久太郎”と呼ばれた堀秀政の面目躍如ですが、信長に近侍して信長の真意を心得ている秀政ゆえ、『抗する者には容赦はせぬが、降る者には寛大にせよ』を解釈し、無用に敵を増やす愚を避けるため、見境の無い乱暴狼藉を厳に戒めた…という事でしょう。
笠間峠で洞ヶ峠の筒井順慶
伊賀南部の名張郡に侵入したのは大和口からの筒井順慶、定次父子率いる3千7百と、初瀬口からの浅野長政軍1万で、大和宇陀郡の豪族連合の勢力が主体でした。

9月28日、笠間峠の頂上で兵を止め、眼下の名張近辺の動静を観察した筒井順慶は、近在の豪族達が大挙して籠る柏原城を浅野軍が包囲するのを待ち、伊賀忍軍の追撃が不可能になった事を確信すると一気に峠を下り、名張東部の村々を焼き討ちしながら北上して行きます。

現代も存続する土塁のある民家 こうした家々は等しく焼き討ちされたのでしょうね
無人の野を行く筒井軍は、沿道の社寺はもとより身を隠せる家々を片っ端から略奪放火し、筒井軍の通った跡は一面の焼け野原の惨状を呈しました。
柏原城を囲んでいた浅野長政は、秋山、芳野、沢の宇陀衆に攻囲を任せると自兵を率いて筒井軍を追い、花垣余野で追い付くと伊賀上忍の一人、千賀地一族の千賀地城を共に囲むや一気に襲いかかり、忽ち占領しました。

花垣集落の入り口にある千賀地城址

単郭の小さな城ですが、実は此処は上忍:服部家の本拠地でした

平安末期、平氏方だった服部家長は壇ノ浦の敗戦後ここに逃れて“千賀地”を名乗ります。 服部の姓に復したのは戦国中期の保長で、後継者の正成(半蔵)は早くから徳川に仕えた為、この城には長子の保元が居た模様です。
藤堂采女正は保元の孫で、親族待遇で藤堂家にスカウトされ、上野城の城代家老を務めました。
第二次天正伊賀の乱(中) につづく
上忍三家のうち最も謎に包まれた 藤林長門守
服部半蔵や百地三大夫ほど名が知れてなくとも、伊賀北部に隠然とした勢力を誇ったのが藤林長門守正保でした。
近江国甲賀郡に境を接する湯舟郷を地盤としていた藤林家は、甲賀忍軍にも多くの配下がおり、伊賀甲賀双方に多大な影響力を持っていたとされます。
しかし、そんな重要な立場にありながら正保に関する記録はほとんど無く、伊賀忍軍上忍三家の中でもその素性が最も謎な人物です。



前述した様に、第二次天正伊賀の乱では雨請山砦に籠り、次いで田矢伊予守城に転じては蒲生氏郷を追い詰めながらも、壮絶な討死にをしたという説がある一方で、甲賀の多羅尾氏と連携して織田軍の手引きをして生き残ったという正反対な説もあります。
更に驚くのは、藤林長門守は織田の軍勢と最後まで戦い抜いた百地丹波守と同一人物であり、伊賀忍軍を一手に率いた百地丹波守が名を変えながら伊賀全土で織田軍と戦ったという説もあるのです。


いずれにしても藤林長門守の子孫はこの地に残った様で、居城跡と正保の墓が大切に保存されていました。