沖縄の最終日は、南部の豊見城、糸満方面を観光して、最後に首里城を訪ねて締めました。
 
 
📷 ひめゆりの塔
 朝8時にホテルを発ち、一桁国道並みの高規格道路R331を南下し、1時間足らずで着きました
 
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まだ2組目の参拝の様です
 
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自決した洞穴 民間人の彼女達には、生きる道を選んで欲しかった…(-_-;)
 
 
📷 ガンガラーの谷
 次いで訪れたのは、玉泉洞に隣接する『ガンガラーの谷』です。石灰岩台地の浸食谷には熱帯雨林の原生林が残り、ガイドの案内でトレッキング(…って程でもないが)するツアーがあるのです。
 
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昔は人も入れない鬱蒼とした谷間で、子供が上から石を落とすと音が共鳴して、ガンガラガンガラー…と木霊したそうです(ガイド談)
 
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集合場所はこの鍾乳洞 中はお洒落なカフェになっています
 
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ガイドのお兄さんを先頭に、隊列を組んでスタート 前を歩く女子4人組はfrom Hong Kongだそうです 蚊に刺されるぞ!
 
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コースは小川沿いの原生林で
 
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奇妙なガジュマルの根が垂れ下がります
 
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洞穴もいくつか通り抜け
 
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港川人の住居跡がゴール 1時間半のコースでした
 
 

 
日本100名城 №100 沖縄県  首里城  登城日2018.7.19
 
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 別名           百浦添、御百浦添、御城(ウグシク)
 城郭構造     山城
 天守構造     なし
 築城主        不明
 築城年        13世紀
 主な城主     第一尚氏、第二尚氏
 廃城年      1879年(明治12年)
 遺構           石門、城壁、石垣
 再建造物   正殿・門・御嶽・城壁
 指定文化財  国の史跡、世界遺産(琉球王国のグスク及び関連遺産群)
 所在地      沖縄県那覇市首里金城町1丁目
 
さていよいよ旅の最後の訪問地:首里城です
 
 
 首里城は13世紀末に造られた城のひとつで、中山王の尚巴志が三山統一を成し遂げた後、居城の浦添城から移って琉球王国の居城となりました。
 
 第一尚氏はもちろんの事、第二尚氏もこの首里城を本拠として使用し、明治までの約450年にわたり琉球王国の中心でした。
 
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2千円札でおなじみ 守礼門から入って行きます
 
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すぐ左手にある園比屋武御嶽の石門 ここも戦災で破壊されましたが、瓦礫を繋ぎ合わせる丁寧な修復で世界遺産にも指定されています
 
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最初の城門となる歓会門 大手門が追手門ではなく歓迎門なんです
 
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遠目には漆喰の塗籠に見えましたが、複雑かつ精巧な亀甲積みです
 
 
 国の最重要産業である中継貿易の拠点となった那覇港を見下ろす高台にあった首里城が、地勢的にもより相応しい事は、現地に立ってみるとよく理解できます。
 琉球国の王府となった首里城は、国王の居館だけでなく、政治と宗教の中心地でもありました。
 また広義の支配者たる中国明朝の柵封使や薩摩の役人をもてなす賓館でもありました。
らに無用に脅威を与える城であってはならないそれらのコンセプトから、戦時の城塞色は極力排除した形の、いわゆる平和時の宮殿という姿が首里城の真実に最も近い表現だと思います。
 
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歓会門を入ると、主郭である宮殿が見えます
 
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瑞泉門を入ると主郭…と思いきや
 
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中は枡形になっていて、次の漏刻門が行く手を遮ります
 
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この枡形内の石の精巧なカットをご覧ください
 
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漏刻門を入ると宮殿の間近ですが入り口は無く、廣福門から下之御庭へ迂回して行きます
 
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此処からは胸壁のある外側の城壁と那覇市街が良く見えます
 
 
 1879年、廃藩置県で琉球王国(琉球藩)が消滅すると、尚泰王は華族(侯爵)として東京への移住を命ぜられ、首里城は陸軍の軍営となり、のちに首里市に払い下げられて、学校などに使われたそうです。
 
 首里城の城門などは順次解体が進み、宮殿も老朽化して解体寸前となりましたが、貴重な建物の喪失を惜しむ声が上がり、沖縄神社の社殿として残される事となり、国宝として保全改修がなされました。
沖縄神社とは、1923年に造営された県社で、ご神体は源為朝と歴代国王だそうです。
 
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広い下之御庭は宮殿に入る前の控えの場で、正面の奉神門が宮殿入口
 
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この先は有料エリアで、黄色い帽子の王府の役人が改札しています
 
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入って行くと御庭で、正面に正殿が聳えています
 
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正殿内は撮影禁止場所もありますが、王の玉座付近は可能でした
 
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王冠や金印も展示されていますが、レプリカでしょうね
これらが収納されていた宝物庫は運よく戦災を逃れましたが、宝物は上陸して来た米兵によって悉く略奪されたのだそうです  後日、さすがに蛮行を恥じた米軍は一部を返還しましたが、大半は行方不明との事です
 
 
 1945年5月、太平洋戦争の沖縄戦が始まります。
首里城の下には地下壕が掘られ、陸軍の総司令部が置かれていたため、首里城はアメリカ軍の集中攻撃を受け、建物城壁はおろか山容も変わるほどの艦砲射撃で消滅してしまいます。
 
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正殿の裏手は王とその家族の私的空間で、書院や庭園がありました
 
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それに繋がる淑順門は当然閉鎖されています
 
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内側城壁の下部に僅かに残る戦前までの城壁遺構
 
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見上げるとスキマの無い精巧な高石垣 これは登れませんね
 
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かと思えば、陸軍司令部跡と思われる地下壕入り口も
 
 
 戦後、首里城の跡には琉球大学が建設され、地形はさらに改変されてしまいますが、1972年に沖縄の返還がなされるとすぐに国の史跡に指定され、琉球大学の移転を待って首里城復元が着手されます。
本土復帰にあたっての、沖縄県民の一番の悲願が首里城復元だった様ですね。
 
 復元にあたっては、指図や古写真、古老達の記憶まで駆使して、忠実に復元されて行ったそうで、現在の首里城は全てがまだ新しいものの、その姿形は往時のモノと寸分違わぬモノだそうです
 
 
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曲線を多用した外側城壁は今帰仁城の流れですね
 
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内側城壁は敵を寄せ付けない高石垣です
 
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那覇市街が一望
 

 
 4日間の駆け足でしたが、沖縄の城巡りを楽しみました。
かつては琉球王国という独立国だった沖縄、現在では我々と同じ日本国の一部ですが、その日本の一地方にも我々と同様に争いがあり、質の高い文化が花開いていた事を体感できる4日間でした。
 
 何より亜熱帯に属する沖縄が本土よりも涼しく快適だったのは大きな驚きでした。
そして、レンタカーの移動でしたが、広い道路網の発達とパーキングなどのインフラは本土を上回る充実度で、これも旅を快適にしてくれました。
ひと言で、“沖縄には金かけてるなぁ”…が実感です。
 
 沖縄には米軍基地にまつわる数々の問題があり、それと差し引きしてどうかは正直判りませんが、本土より恵まれてる部分もある…という感想です。
 
 

琉球5城を一気に踏破