中城城の次は、東へ下道で15kmほど走って、阿麻和利の勝連城へ向かいます。
 
 勝連と言えばもう50年近く前になりますが、中坊の頃に“ペンフレンド”とゆうのが流行っていて、少しの間ですが同年の沖縄の女の子と取り留めのない手紙の遣り取りをしていた事がありました。
そのの住所が確か勝連町平敷屋だったのを思い出しました。
キュンな記憶という程の事でもないのですが、元気にしてるでしょうかね?(^-^;
 
 
 
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日本200名城 №200  沖縄県 勝連城  登城日2018.7.18
 
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 別名           なし
 城郭構造     山城
 天守構造     なし
 築城主        英祖王統・大成王の五男 勝連按司
 築城年        1213世紀頃
 主な城主     勝連按司、勝連の伊覇按司、浜川按司、茂知附按司、阿麻和利
 廃城年      1458
 遺構           石垣、郭
 指定文化財  国の史跡、世界遺産(琉球王国のグスク及び関連遺産群)
 所在地      沖縄県うるま市勝連南風原
 
 
 
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専用の無料駐車場から見る勝連城
 
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案内所もプレハブではない立派な建物で、沖縄の城のこうした施設は日本でもトップクラスです
 
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駐車場の脇にある立体模型 まさに要塞ですね
現存する城址遺構は右半分だけなのですが、左側も順次復元の予定だそうです

 
 勝連城はグスク時代の初期、英祖王統の第二代大成王の五男(名前は不明)が勝連按司となって、築城に着手したと言いますから、琉球でも一二を争う古いグスクとされています。
 実際、勝連城でのトレンチからは幾層にも改修補強された跡が確認されていますから、長い時間をかけて進化した城という事でしょう。
 
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緩やかな歩道の坂道を城址へと登って行きます
 
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道端にこうゆうのが自然にあります(^^)
 
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三ノ郭と呼ばれる一番低い平場の城壁は復元中 このエリアは明治時代に建築資材に持ち出されて、失われていましたが、少しずつ復元されてる様です
 
 勝連城は勝連按司が5代にわたって支配して行きますが、5代目のとき伊波按司によって滅ぼされ、乗っ取られてしまいました。
 しかし、その伊波按司は勝連按司の家臣だった浜川按司に滅ぼされ、浜川按司の時代が2代続きますが、茂知附按司に取って替わられています。
その茂知附按司を討って勝連城主となったのが、10代目城主となる阿麻和利でした。
 
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三ノ郭は屋敷が建ち並ぶ生活空間だった様ですが、海が見通せます
 
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三ノ郭から見る二ノ郭城壁は迫力満点!
 
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井戸がたくさん有る事が、生活空間だった事を物語っていますね
 
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早くに廃城になった割には、石垣のレベルは高いです 復元時の時代考証が曖昧だった?
 
 
 阿麻和利は伝承によると北谷(ちゃたん)の農民の子で、口減らしに捨てられますが独力で生き延び、成長して勝連按司の雑仕に雇われて、メキメキ頭角を現した家臣でした。
まるで木下藤吉郎ですが、昔の英雄伝説とはそんなもんでしょう。
 頭脳明晰だった阿麻和利は何らかの計略を用いて茂知附按司に取って替わり、按司となりました。
 
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二ノ郭へのアプローチは緩い坂道が大きく迂回しながら登って行きます
 
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途中に城壁の上に登れる場所が有ったので、迷わず登ります
*正確に言えば、登れる高さだけど、『登るな』とは書いてない(^-^;
 
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向こうの石垣とつながってて、道路の場所に城門があった様です あと数年後には…
 
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自然の岩盤にも巧みに乗って、良い雰囲気です

 
 按司になるとまず税を軽減して民心を得ます。
次には大陸や日本との貿易に力を入れ、富を築くとともに、先進の文化をも積極的に採り入れたので、勝連は首里をも凌ぐほどに栄え、その繁栄ぶりは大和における鎌倉の如しとまで言われたそうです。
 
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二ノ郭の門跡に付きました 櫓門だった様ですね
 
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この凹みには鏡柱が入るのかな?
 
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二ノ郭内には広い武者溜まりと…
 
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宮殿の跡があります 後方は一ノ郭ですね
 
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石段の踏み込みに傾斜があるのは、攻め込みにくくする為か?
 
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二ノ郭の御嶽はカモフラージュで、洞穴があって、一ノ郭からの抜け穴になっていたそうです
 
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なんとなく、ヨーロッパの古城の佇まいですね

 
 それは当然、首里の琉球王:尚泰久にとって脅威となります。
尚泰久王は阿麻和利に娘を嫁がす懐柔策を取る一方で、琉球きっての武将:護佐丸を中城城へ動かして阿麻和利を牽制させました。
 
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最後の一ノ郭へと登って行きます
 
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一ノ郭の門跡 この石垣は切り石ながら、縦の目地を揃えようと積んでいるので、古い形式なのが判ります
 
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郭内は御嶽の他には何もなく、城壁も低めです 比高差があり、撃ち下ろしだからこれでいいのか
 
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抜け穴の跡みたいですね
 
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一ノ郭からは城の全容が見渡せます
 
 
 その後は中城城の回で述べた通りですが、琉球王の座を狙う阿麻和利は謀略をもって護佐丸を滅ぼし、返す刀で首里城に進攻するも、妻で尚泰久王のでもある百度踏揚がいち早く通報したため、準備を整えた王府の軍によって撃退され、勝連城に籠るも遂には自害して果てました。
これにより勝連城は廃城になったと伝わります。
 
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沖縄で上演されてる芝居のパンフより拝借
護佐丸と阿麻和利は琉球史を代表するスター、二人の対決の場面は歴史上のハイライトです
義に厚く凡庸な王にも殉じた護佐丸と、知略と権謀術数で貧民から成り上がった阿麻和利。
本土で言えば柴田勝家と羽柴秀吉か?
 
 
 
【📷 万座毛】
勝連城の後はきれいな海を求めて名勝:万座毛まで足を延ばしました。
 
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有名な“象岩”ですね
 
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景色はともかく、本当に海の透明度が凄いです!
 
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ANAインターコンチ 次に来る事が有れば、此処に泊まって海だけを満喫したいものです
 
 
⑦座喜味城へとつづく