中城城の続きです
 
 智将で鳴る護佐丸盛春(ごさまるせいしゅん)が中城城に入って東方に睨みを効かせた事で、勝連城の阿麻和利は軽々には動けなくなり、爪を隠して18年の月日が流れます。
 
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今回のレポートは二ノ郭以降です
 
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アーチ門をくぐって二ノ郭へ入って行きます
 
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一ノ郭ほどの広さはありませんが、遺構がよく整備されています
 
 
 このに義父でもある尚泰久に近付いた阿麻和利は、日々兵馬の鍛錬に勤しむ護佐丸の危険性を王に説き続け、尚泰久王も次第に耳を傾ける様になって行きます。
 尚泰久王の正室は護佐丸の娘であり、2人の王子も生まれている事から、外祖父として護佐丸にこれ以上権力が集中する事を嫌う重臣も多かった背景がある事は否めません。
 
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城壁に登ると東シナ海側の海も間近です 地峡の要地…という事ですね
 
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高さも十分あるので…
 
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これ、やっとかないと(^-^;
 
 
 1458年、尚泰久王から護丸追討を命ぜられた阿麻和利は、総大将として王府の軍を率い、中城城を囲みます。
 護佐丸は包囲軍が王府の軍と知ると、一切抵抗する事無く開城し、自身は妻子とともに自害して、滅亡の道を選びました。
 
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初日の夜に行った店『首里天楼』に飾ってあった護佐丸の肖像と武者絵  右の絵は違和感あるので女将さんに聞いたところ、「大和の甲冑は琉球の武将も好んで使った」のだそうです
 
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二ノ郭を出て“井戸郭”とも言うべき北ノ郭へ入って行きます
 
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この石段を下りた先に井戸はある様ですが… 『ハブに注意』の看板がイッパイあります(*_*;
 
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辺りを見回しながら、慎重に降りて行きましたが、いかにも居そうな場所です
 
 
 護佐丸という大きな障害が消えた阿麻和利は、王位の簒奪を目的に首里城への侵攻を準備し始めますが、この企みは妻:百度踏揚(尚泰久王の娘)の付き人として入っていた越来賢雄によって王府へ報らされ、逆に勝連城を包囲されて阿麻和利も滅亡してしまいます。
 
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玉泉洞のハブ園にて “川口浩探検隊”状態で飼われています 
沖縄のハブも3種類ほど居て、見た目はかなり違います また無毒のヘビもややこしい姿をしていて、咬まれても有毒か無毒かで悩みます(^-^;
 
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直接聞いてみるのが手っ取り早いかも(^-^;
 
 
 第一尚氏王統6代目ともなると王の統制も緩くなり、家臣の微妙なバランスの中で王権が維持されていたのが実情ですから、あまりにも力を持った家臣の存在を誰もが望まなかった そんな力が働いた気がしますね。
 
 この直後に尚徳王が7代目王に即位するも、1470年には重臣:金丸のクーデターにより滅亡しますから、金丸の深謀が働いていたと見るのが自然な感じですね。
 
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城見学に戻って、最後の三ノ郭に向かいます
 
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ここは一番外の郭なので戦いに特化していて、例えば雁木も幅広く造られています 残念ながら登れませんが
 
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古城の佇まいがイイですね
 
 
 この金丸が尚真王として即位し、 第二尚氏王統が始まると、中城と中城城は世子の中城王子の持ち物となり、代官が派遣されて管理します。
 1609年の薩摩侵攻後は城内一ノ郭に中城間切番所が置かれ、明朝の柵封使が渡来したら薩摩藩の役人は此処に隠れていたそうです。
 
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裏門のアーチ門から城外に出ました
 
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郭っぽい平場のこの場所は、明治になってから学校建設の為に削平された場所です
 
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昔の登城路(搦め手道)は此処だったと思うのですが… とても入って行けませんね(^-^;
 
 1879年、琉球処分で沖縄県が発足すると番所は村役場として存続、小学校なども城址に設置され、城址は何らかの形で機能し続けました。
 1945年の沖縄戦でも米軍機の空爆で建物を焼失しましたが、特に日本軍の陣地には活用されていなかった為、大きな破壊は免れて、以後は史跡公園としての道を歩んでいます。
 
 
次は阿麻和利の勝連城を訪ねます つづく