3日目は一気に3城を踏破します。

まず訪ねたのは中城城、ここも見どころ満載なので、前・後編に分けてUPします。
日本100名城 №99 沖縄県 中城城 登城日2018.7.18

城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 先中城按司?
築城年 14世紀後半
主な城主 先中城按司 護佐丸盛春
廃城年 1458年
遺構 石門、城壁、石垣
指定文化財 国の史跡、世界遺産(琉球王国のグスク及び関連遺産群)
所在地 沖縄県中頭郡北中城村大城




中城城(なかぐすくじょう)は元々は三山時代の中山の按司だった先中城按司の一族が14世紀に数代かけて築いた連郭式の城でした。
グスク=城ですから、中城で良いのでは?…とも思いますが、中城までが地名の様で、“なかぐすくぐすく”で正解なんです。

大手(正門)道を登って行くと、まず鍛冶場と呼ばれる平地に出ます 崩落した?積み石が並んでいます 奥に見えるのは城址に建つ予定だった『中城高原ホテル』の廃墟 大きな反対を受けて場所を変えて建設しましたが、会社が倒産したりで未完のまま放置されています。

鍛冶場からはもう海が臨めます

そしてこちらが中城城址 左手から回り込むと正門があります

中城城が今日の様に“名城”と評価される様になったのは、尚巴志による三山統一の後に拡張整備されてからです。
第一尚氏王統も安定して来ると、各地域を治めている豪族:按司の中にも独自色を強める者が出て来ます。
勝連城を本拠として勝連半島を領していた阿麻和利(あまわり)はその中でも最有力者で、独自の交易で富を築き、さながら室町政権下の鎌倉の様相だった様です。
正門の形式は櫓門だった様ですね
南ノ郭の城壁は切り石の布積み、郭内へのアプローチはなんと亀甲積みで積まれています
隣りの一の郭の西壁 ここが崩れていた様です。 二段式の石垣で、下段の野面ではなく、上段の布積みが崩れています
南ノ郭と一ノ郭の枡形を折り返して登って行く…危険な城です
野面の上に積んである部分はすべて護佐丸による改修…と見て良いのでは?
積み石が失われた部分は中身の栗石が見えて、カットモデルみたいです
南の郭の御嶽 この郭は後宮みたいな雰囲気を醸しています
一ノ郭の間際にも御嶽が
一ノ郭へのアーチ門 上部の石が失われていますが、綺麗な門です
円弧形に加工した2枚の石を組み合わせたアーチですね。 地震対策なのか、難しい技術です
揺れて動かない様に、壁面の石のカットも手が込んでいます。本土で野面積みの石の城が現れる百年前ですよ!(^-^;



石垣の中身もすべて石なのが見えます


第6代国王・尚泰久王は娘の百度踏揚を阿麻和利に嫁がせて懐柔策を取る一方、読谷の按司として座喜味城主だった護佐丸盛春を中城に移封して中城城を強化改修させ、阿麻和利への抑えとしました。






護佐丸は中城城の搦め手に強固な郭(三ノ郭)を増築する一方、城の水の手だった井戸も完全に郭内へ取り込み(北ノ郭)、籠城でき強固に守れる城へと変貌させました。
しかし、現在見られる城の遺構は護佐丸による改変部分の形式が全体に施されている事から、護佐丸は全面的に大規模な改修を行なった公算が強いとも言われています。

一ノ郭内には崩れた積み石が山ほど並んでいます 向こうに積み上げている茶色いのは中込石ですね

宮殿の跡です 一ノ郭は本丸ですから、胸壁のある堅固な城壁がグルリ巡っています

次の二ノ郭へと、本格的な曲線美の城壁が続きます

天端の角石がピンと上を向いているのは、伸びやかな曲線を強調するデザインだと言われています

1853年7月に浦賀にやって来たアメリカのペリー提督は、5月には沖縄に寄港していて、上陸したペリーは中城城への訪問を希望して、測量などの調査をしきりに行って、建築技術の高さに驚嘆するとともに、詳細な報告書を残しています。
また、同行していたドイツ人画家:ヴィルヘルム・ハイネが4枚のスケッチを残しています。

中城城《後編》へつづく