今帰仁城のつづきです
沖縄は珊瑚礁が隆起して出来た島ですから、地質的にはサンゴ石、つまり石灰岩の島です。
土の部分でも50cmも掘れば岩盤が出て来るので、必然的に建造物を造る際には石を主材に活用する文化が育った…と思われます。
石灰岩は固い割に加工が容易ですからね。

入場パンフの立体図ですが、8つの郭が梯郭に重なっているのが判ります 出隅入隅もシッカリ造られ、横矢の効く構造ですね

外郭部の石垣は幅が広いものの、外を向いた胸壁もなく、構造の意図が判りません 最下段ですから、廃城後に石が持ち去られた可能性もあります

平郎門(大手)前の入り口 人が途切れるのを待ちましたが、C国の家族は動きません(^-^;
“グスク”の時代にも、それぞれのグスクが石を積み上げた防塁を基本とした単郭もしくは2~3の連郭から成っていた単調な城だった様です。
今帰仁城が有名なのは、その規模の大きさもさることながら、郭の構成と防御構造の巧みさにあります。

平郎門から入ります 石垣の中に狭間がある!

内側から見るとこうなっています 高さが足りないから、和弓は構えられないですね

門前を上から狙う城壁 “縦矢”?
三山時代末期、北山王で今帰仁城主の攀安知は中山王:尚巴志に攻め込まれます。
大軍に囲まれた攀安知は今帰仁城に籠って防戦したため、中山軍は堅固な城に攻め口を見出せず、いたずらに日数を重ねてしまいます。
ここで一計を案じた尚巴志は、攀安知の副将格で“利に敏い”と評判の本部平原に狙いを定め、膨大な贈り物をして“調略”に成功しました。


城内に何ヶ所かある“御嶽”は聖なる祭祀の場 名古屋場所の優勝は御嶽海(みたけうみ)でしたが、こっちは“うたき”と読みます
翌日、本部平原はさっそく攀安知に進言します。
『敵も長い攻囲に厭いて戦意が落ちていると見受けられます。 ここは私と王が交互に討って出て、一気に敵を追い落としましょう!』
元々猛将で知られ腕が鳴っていた攀安知は、すぐにこの提案に喰い付きます。
『よし!まずはワシが討って出るぞ!』
門を開け出陣した攀安知はさんざんに暴れまくり、中山軍を数百メートルも後退させる戦いっぷりでしたが、その時城内から火の手が上がります。
『なにごと!?』と急ぎ帰城してみると、本部平原の裏切りと妻子が自害した事を知らされます。
攀安知も『もはやこれまで…』とすぐさま自害して果てた為、堅城:今帰仁城は内部から崩壊し落城してしまいました。



戦後、治安維持のためにと居残りを志願した中山の武将が居ました。
“護佐丸” と言い、中山王の信任も厚いこの武将は今帰仁城の構造をつぶさに見て回り、後に座喜味城や中城城を築く際の防御構造に多くを採り入れたので、今帰仁城並みの堅城が次々と誕生し、護佐丸=名築城家として名を残す事になりました。
今帰仁城が琉球の城のスタンダードになったとゆう事ですね。

主郭には宮殿の礎石が残っています

【📷 古宇利島】
古宇利島は本部半島の東に浮かぶ小島ですが、“沖縄で一番海がきれいな場所”として有名なので、海を楽しみに行ってみます。

古宇利島は島ながら、橋が架かっていてクルマで行けます




次は中城城を訪ねます つづく