江戸末期の石高10万石以上の大名の江戸上屋敷跡を巡って来ましたが、今回が最終回となります。
 
最後は江戸城の南方に藩邸を構えていた大名屋敷の跡を巡ります。
 
 
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53.越後新発田藩上屋敷
 藩主:溝口直薄  藩祖:溝口秀勝  石高: 10万石
 所在地:港区新橋2丁目
 現状の姿:西新橋交差点界隈
 
 
 最終回のスタートは新橋からです。
 溝口家は堀秀政の与力として越後新発田に配されて、そのまま関ヶ原では東軍に属した為、新発田藩6万石の外様大名となりました。
 
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新橋駅の至近で飲み屋も多く、現代のサラリーマンなら泣いて喜ぶロケーションですが、当時は
 
 新発田秀勝は藩の成立過程において、敗者側の浪人から優れた人材を採用・登用して行き、有能な家臣団を形成して行きました。
 領地は多くが信濃川デルタ地帯で、低湿地が広がる原野でしたが、こうした人材が活躍しての治水事業と新田開発が進み、幕末の実高は40万石もあったという説もあります。 
藩も領民も、あまり貧乏とは縁がなかった稀有な藩でした。
 
 
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“上海の裏街”と見まごうガードを潜って南に抜けると汐留です


 

 
 
42.武蔵忍藩上屋敷
 藩主:松平(奥平)忠国  藩祖:松平忠明  石高:10万石
 所在地:中央区銀座8丁目
 現状の姿: ベルサール汐留、銀座郵便局、銀座中学
 
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ここは何処?って感じですが、完全市街化した忍藩邸跡地 この奥には築地市場があり、右手には浜離宮庭園が広がっています

 

 藩祖の松平忠明は奥平信昌の4男ですが、信昌には家康の娘:亀姫が嫁いだので、忠明は家康の外孫になります。
家康は忠明を溺愛し、自らの養子に迎え松平姓を与えた上で新たに“作手藩”を立ち上げて、その藩主に据えます。
一度は秀頼亡き後の大阪城を任そうとした家康でしたが、結局は親藩のひとつとして大和郡山、姫路、福山、宇都宮、白河、桑名などの要地を移封して廻り、忍で明治を迎えました。
 
 
 
 
.陸奥仙台藩上屋敷
 藩主:伊達慶邦  藩祖:伊達政宗  石高: 62万石
 所在地:港区東新橋1丁目
 現状の姿:日本テレビ、電通、コンラッド東京、など
 
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賑わう汐留のビル群の大半は仙台藩邸跡地に建っています
 
 
 仙台藩上屋敷は元々は日比谷公園内(のちの鍋島屋敷)にありましたが、寛永18年(1641)江戸湾に面した汐留の地を拝領すると、20年ほど掛けて上屋敷の機能を移します。
広さは桜田屋敷が1万坪強だったのに比べ、汐留の屋敷は2万4千坪に及びます。
 大藩となると江戸詰めの家臣も多く、1万坪では手狭です。その生活を賄う米穀を国元から送っても、屋敷が内陸では何かと不便です。
 時代を経るにつれ江戸湾の埋め立てが進み、大藩の蔵屋敷が沿岸に整備されて行きますが、大藩で蔵屋敷と上屋敷を同じにしたのは仙台藩だけですね。
 
 
 
33.相模小田原藩上屋敷
 藩主:大久保忠礼  藩祖:大久保忠隣  石高:11万3千石
 所在地:港区浜松町2丁目
 現状の姿: 世界貿易センタービル、浜松町駅、など
 
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浜松町駅と世界貿易センタービル 飛行機での国内出張の際にはよく使った駅ですが、此処が小田原藩邸跡でした
 
 
 小田原藩邸は芝恩賜庭園に隣接した北側にありました。
 延宝6年(1678)小田原藩主:大久保忠朝は老中の働きが認められ、将軍:家綱より芝に広大な屋敷地を拝領します。
忠朝は屋敷を建てると同時に小田原から職人を呼び、回遊式の泉水庭園を造り、「楽濤園」と命名しました。
 
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すぐ南隣の芝離宮 此処は紀州藩の浜御殿だとかり思っていましたが、実は小田原藩邸の庭園だったのです
 
 しかし、富士山の宝永大噴火(1707)が発生すると国元では農地が壊滅し、その復旧も幕末に頼らざるを得ない状態となり、経費節減策として拝領屋敷を幕府にすべて返上しました。
 屋敷はまた小田原藩に戻されたものの、庭園部分の所有者は転々とし、最終的には紀州徳川家が別邸として面倒を見る事で落ち着きました。
 
 
 
 
.薩摩鹿児島藩上屋敷
 藩主:島津忠義  藩祖:島津義久  石高:72万8千石
 所在地:港区芝5丁目
 現状の姿: 日本電気本社、など
 
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NEC本社”が藩邸跡という事になっていますが、敷地に掛かっているのはほんの一部で、あとは市街地の中です あ、私も“LAVIE”愛用していますよ(^^)

 

 このシリーズで取り上げた53藩のうち、江戸城から最も遠い上屋敷がこの薩摩藩の三田屋敷で、江戸城大手門までは5kmほども有ります。
 江戸開府当初は幸橋門内にある中屋敷が上屋敷で、高輪の下屋敷が中屋敷、そしてこの三田屋敷は下屋敷という使い方であったかと思いますが、いつの間にかここが上屋敷となっていました。
実際に幕府や諸藩の監視の目から少し離れて、いざとなったら直ぐに船でトンズラできる
学校の教室や修学旅行のバスで最後尾に座りたがるゴマ摺りも絶対服従もしない少しヤンチャな生徒に繋がるモノを感じますね(^-^;
 
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有名な薩摩藩邸古写真  三田屋敷跡をグルリ廻って見ましたがまったくの平地なので、この地形はどうやら高輪屋敷みたいですね


 

 
 
20.筑後久留米藩上屋敷
 藩主:有馬頼咸  藩祖:有馬豊氏  石高:20万石
 所在地:港区三田1丁目
 現状の姿:三田国際ビル、三田病院、など
 
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三田の赤羽橋に広大にひろがる久留米藩邸跡 ありまぁ~!
 
 
 有馬氏は元は摂津国有馬郡(有馬温泉が有名)の豪族で、江戸初期には福知山8万石でしたが、大坂の陣の後に20万石に大加増されて筑後久留米に転封しています。
特に大きな戦功は見当たらないのですが、日頃の真面目な奉公を家康が見ていたという事でしょうか。
 この三田の有馬屋敷は2万5千坪もあり、薩摩屋敷より広かったそうです。
屋敷内には水天宮が祀られ、江戸の名所のひとつとして賑わいました。
 江戸の庶民曰く、『恐れ入谷の鬼子母神、情け有馬の水天宮…』
この水天宮は現在は日本橋蛎殻町(下屋敷跡)に移転しています。
 
 
 
 
27.伊予松山藩上屋敷
 藩主:松平(久松)勝成  藩祖:松平定勝  石高:15万石
 所在地:港区西新橋3丁目
 現状の姿:慈恵医大病院、など
 
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松山藩邸跡には白い巨塔が

 

ここも繁盛してますね 通り沿いには薬局や医療機器メーカーが軒を連ね、門前町を形成しています
 
 
 増上寺の西を抜けて愛宕下の大名小路を北上すると、伊予松山藩の上屋敷がありました。
この親藩:久松松平家は家康の生母:於大の方が家康の父:広忠に離縁された後、再嫁した久松俊勝との間にもうけた康元、勝俊、定勝の3人の異父弟が祖となります。
 松山藩は末弟の定勝の家系で、定勝の二男の定行が寛永12年(1635)に伊勢桑名から転封し、明治まで続きました。
 赤穂事件(吉良邸討ち入り)の後、この松山藩邸にも赤穂の浪士10名が預けられ、幕府の裁定後に屋敷内で切腹しています。
ちなみに、浅野内匠頭長矩が切腹した田村右京太夫の屋敷は、この北東100mの所にありました。
 
 

 

24.武蔵川越藩上屋敷

 藩主:松平(越前)直克  藩祖:松平直基  石高:17万石

 所在地:港区虎ノ門2丁目
 現状の姿:ホテルオークラ
 
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ホテル玄関わきの喫煙ブースを借りて小休止

実はこの隣が米国大使館で、首相官邸や総連ビル並みの厳重な警戒でした
 

 
 数多い越前家の大名の中で、川越藩は結城秀康の5男:直基の家で、3代:朝矩は上野前橋藩15万石の藩主でした。
 明和4年(1767)、川越藩主:秋元凉朝が山形へ転封になり、川越藩は廃藩となります。
領地は前橋藩に編入されて松平朝矩の領地となり、川越城は一旦廃城となりました。
 しかし同年、利根川が氾濫して前橋城は本丸の大半が流失する大きな被害を蒙ると、朝矩は居城としての前橋城を放棄して川越城に移転した為、前橋藩は河越藩に名称を変える事となったのです。
 
 
 
 
45.美濃大垣藩上屋敷
 藩主:戸田氏彬  藩祖:戸田氏鉄  石高:10万石
 所在地:港区赤坂1丁目
 現状の姿: アークヒルズ、ANAホテル
 
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米国大使館のわきを強行突破して、坂を下りて行くとANAホテル前にでます ここが大垣藩邸跡です
感覚的にもう、六本木ですね
 
 
 戸田氏は古くから三河に栄えた氏族で、多くの分家がありました。
本多家、大久保家などと同様に草創期の徳川を支えた氏族のひとつである為、徳川幕府の中でも幾つもの家が大名、旗本として在りました。
大垣藩戸田家は寛永12年(1635)に氏鉄が10万石で入り、以降明治まで続きます。
官位は代々采女正を歴任し、10万石と高禄の譜代大名でしたが、老中を務めたのは7代の氏教一人だけという、ちょっと影の薄い家ですね。
 
 
 
 明日からまた取材の旅に出るので、取材済みのネタは少しでも完結しておきたく、最後は駆け足になってしまいました。
これで新ネタ取材に専念できます(^^♪
 
江戸の大名屋敷今昔めぐり