東海地方も梅雨が明けて、猛暑の夏が到来です。
朝夕に2時間ずつ畑に出たら、昼間は冷房の利いた部屋での昼寝が欠かせません(^-^;
大名屋敷めぐりの11回目、日比谷から霞ヶ関・永田町に入って行きます。
此処は明治維新から今も国の官庁が集まる場所として知られていますが、江戸時代も大名小路と並んで大藩の屋敷が集まる場所でした。
広大な屋敷地の没収で可能になった都市計画ですね。

【31.出羽米沢藩上屋敷】
藩主:上杉斉憲 藩祖:上杉景勝 石高: 15万石
所在地:千代田区霞が関1丁目
現状の姿:法務省

上杉邸跡に建つ省庁として唯一、レンガ造りの法務省の建物 後方の警視庁のビルは杵築藩邸跡です
名将:上杉謙信の上杉家、謙信だけが突出して著名ですが、上杉家の最大版図は景勝の時代の会津120万石でした。
これは多分に謙信の名声(を利用した秀吉の政策)に依る所が大きく、関ヶ原を経た徳川幕府開府時には僅か30万石の普通の大藩でした。

明治中期、招聘したドイツ人技師の手による司法省の建物は、関東大震災にも耐え、空襲でも壁は残ったため戦後そのまま改装して活用しました 重文です。
さらに、3代藩主の綱勝が嗣子の無いまま25歳で急死して改易の危機が訪れますが、ここは旧領の会津藩に入っていた保科正之が奔走して、高家旗本:吉良家に嫁いでいた妹が生んだ綱憲を末期養子として、上杉家の存続を果たします。
しかし、石高は15万石へと半減されてしまいました。
その後の上杉家は過去の名声とはうらはらに、貧乏藩の代名詞の様な苦しい藩政を強いられ、政治の表舞台で存在感を示す事はありませんでした。
【8.安芸広島藩上屋敷】
藩主:浅野長訓 藩祖:浅野長晟 石高:42万6千石
所在地:千代田霞が関2丁目
現状の姿: 国土交通省、総務省

どこかの県庁的なこの建物は国土交通省の庁舎 浅野家の藩邸跡です
上杉藩邸と桜田通りをはさんで対面するのは、広島藩浅野家の上屋敷です。
浅野家は北側の斜向かい(現国会議事堂玄関辺り)にも中屋敷があり、大藩らしく霞ヶ関で広大な屋敷地を有していました。
図上では石高に比して上屋敷が手狭に見えますが、これは参考文献『東京時代MAP』の通りに従った事に依るもので、明らかに同一ブロックの松平中務大夫(杵築3万2千石)、戸田淡路守(大垣新田1万石)が大きく描かれ過ぎていますね。

国会議事堂のこのエリアは浅野家の中屋敷でした
浅野家は寧々さんの義弟の浅野長政からの家で、それこそ最大級の豊臣恩顧の大名な訳ですが、福島家、加藤家の様に改易されなかった陰には、並々ならぬ生き残りの努力があったものと思われます。
“お家大事”のしたたかさ…ですが、徳川への絶対忠誠の態度は幕府を安心させた反面、旧豊臣系をはじめとする外様の大名達からは、藤堂家と同様に“軽侮”的な感情を持たれた事が想像されます。
明治維新まで、石高の割に存在感の薄い大名の感は拭えませんね。
【7.筑前福岡藩上屋敷】
藩主:黒田長薄 藩祖:黒田長政 石高: 47万3千石
所在地:千代田区霞が関2丁目
現状の姿:外務省

黒田邸の跡は外務省になっていました
広島藩邸と霞ヶ関坂の通りを挟んで南西に位置していたのが福岡藩黒田家の上屋敷です。
現外務省と国会議事堂前庭に及ぶ敷地は2万坪と、霞ヶ関で最大の屋敷地です。
福岡藩は黒田長政の関ヶ原での戦功により52万石でスタートした大藩ですが、のちに長政が二男、三男に秋月藩、直方藩を分地した為、42万余りに減りました。
このうち直方藩は5代継高が福岡藩6代目を継いだ為に廃藩となり、藩領は幕府に収公されてしまった為、以後の福岡藩の石高は秋月藩を含めて47万3千石となります。

外国の要人を迎える場所ではないでしょうが、瀟洒な良いビルですね
この継高は嫡男:重政、次男:長経を相次いで亡くし、重政の娘に養子を迎える事で官兵衛以来の血統を守ろうとしますが、しかしその娘も11歳で早世した為、黒田家嫡流の血統は絶えてしまいました。
結局、黒田家は一橋家から養嗣子を迎えて存続しましたが、その後は京極家や藤堂家など、他家からの養子の殿様が繋いで明治を迎えています。

永田町の高台から望む桜田門 この辺りは高地になっていて、戦略上も大事な場所だった事が判ります
【19.近江彦根藩上屋敷】
藩主:井伊直憲 藩祖:井伊直政 石高:23万石
所在地:千代田区永田町1丁目
現状の姿: 国会議事堂前庭、憲政記念館、など

井伊邸になる前の江戸初期には、加藤清正邸であった事が記されています
霞ヶ関の坂を登り詰めると高台の上には国会議事堂が聳え、地名も永田町に変わります。
皇居に向かって建つ議事堂の正面、桜田濠との間の広大な敷地に在ったのは、譜代筆頭の彦根藩井伊家の上屋敷です。
23万石となっていますが、これは直弼の死後の減俸を受けてのもので、江戸期大半の知行は30万石(35万石格)でした。

井伊邸の最高所は御殿跡で、江戸城内をも見渡す事ができる要地です
井伊家は幕政を一手に預かる“大老”を一番多く輩出した家ですが、幕末の尊王攘夷気運の高まりの中で欧米列強との外交を強いられた直弼は政治をした藩主の代表と言っても過言ではないでしょう。
実際にこの地に立って外桜田門の方向を臨むと、安政7年(1860)3月3日の光景が手に取る様に見える気がします。

前住者の清正が遺した「桜の井」 釣瓶式の井戸で、一度に三桶の水を汲む事ができる大型のもので、屋敷前を通る登城者にも供されて好評で、『江戸の名水』を飲める名水として名所になっていたそうです

彦根藩邸跡を北に抜けた最高裁の場所は、明石藩松平家(越前)の屋敷跡です
【23.出雲松江藩上屋敷】
藩主:松平(越前)定安 藩祖:松平直政 石高:18万6千石
所在地:千代田区永田町2丁目
現状の姿: 衆議院・参議院議長公邸

この生活臭に乏しい大邸宅は、参院議長公邸で、松江藩邸跡にあります 現在の家主は自民党の伊達さんですね。
藩祖の直政は結城秀康の三男で、兄:忠直の改易を受けて越前大野藩5万石を立藩しますが、後に信州松本藩10万石に移封になり、そして京極氏の改易で松江藩18万6千石へと、トントン拍子に出世した大名です。

そして隣接する衆院議長公邸 現在の家主はこちらも自民党の大島さんです
直政には天領の隠岐国1万4千石の管理も任されたため、都合20万石の大大名でした。
しかし、福井藩と津山藩が越前家宗家を争う中、気楽な三男坊の家である松江藩は一切関与せず、“タタラ製鉄”など、独自の産業育成に専念しま
した。そうした風潮が7代:治郷(不昧公)の様な名君を生んだのかも知れません。

武家屋敷街にポツンとあった日枝神社 何でだろう?外国人観光客が多かった

そして神社の東側に聳える国会議員宿舎 セキュリティー万全な超高級マンションで、此処ではNHKの取り立ても宗教の訪問勧誘も呆れるばかりの量のポスティングも無いんだろうなぁ~(^-^;
【40.陸奥二本松藩上屋敷】
藩主:丹羽長国 藩祖:丹羽長重 石高:10万石
所在地:千代田区永田町2丁目
現状の姿:衆議院第一議員会館、首相官邸

議員会館から首相官邸にかけては二本松藩邸の跡ですが、御覧の通り植え込みで首相官邸の上部しか見えません。 ちょっと隙間から…と思っても、10mおきに若い屈強な警官が眼を光らせています。
こいつらまだ極左右思想の狂人と善良な納税者の見分けは着かんだろうからなぁ…(^-^;
丹羽氏は織田信長の宿老だった丹羽長秀の子孫の家です。
嫡男の長重は関ヶ原では西軍に付いた為に改易されますが、反豊臣を広める措置として織田旧臣を優遇する家康の方針に乗って、二本松藩10万石で復活します。
温厚実直の実務肌で人望が有った長秀は、家康とは合ったのかも知れませんね。
復活後の丹羽家は徳川への忠節を是として、賦役にも積極的に協力して行った為、信頼を得て移封する事なく明治を迎えています。

…と、文句を言うであろう口うるさい歴史愛好家のために、看板がありました。
作柄の悪い二本松領でしたが、殖産振興に力を入れ、中でも就労者の人口増加を目的とした『赤子育成法』は子沢山の家ほど有利になる育児手当法で、少子化に悩む現代日本に最も必要な法例ではないかと思います。
【46.信濃松代藩上屋敷】
藩主:真田幸教 藩祖:真田信之 石高:10万石
所在地:千代田区霞が関1丁目
現状の姿:経済産業省

霞ヶ関に戻って経済産業省前 真田家の藩邸跡ですが、“真田ブーム”と言えども、さすがに六連銭の赤い旗は立っていません。
真田家の上屋敷は虎ノ門内の外堀端にありました。
藩祖信之の名声もあり、外様の雄藩と見なされていた真田家も、信之が没して代が変わって行くに従って藩内の統制が乱れて、家臣達の不正や私的蓄財が横行するままになり、藩の体質が悪化して財政は窮乏します。
水戸黄門一行に来て欲しい状態になった松代藩の改革に敢然と立ち向かったのは6代:幸弘で、恩田木工を登用して大改革を断行します。
それまでの汚職の横行に、藩への信頼を失っていた領民も、次第に正規の年貢を納める様になり、藩財政は一応の回復を見ます。
しかし、真田家の悲劇はこの幸弘が結核を患ってしまった事で、結核は次々に感染した妻子の命を奪う事になり、嗣子なく幸弘を以って真田の血は絶えてしまう事になります。
後嗣は井伊家からの養子の幸専が継ぎ、その後は松平定信の子:幸貫、宇和島伊達家の幸民などが養子に入り、養子の殿様で明治まで繋いで行くのです。
あの誰もが一目置いた真田家は実質的には信之の死を以って終わってしまっていた…。
あまり知りたくない史実です。

メトロの霞ヶ関駅から移動します
此処は大岡越前守の屋敷跡です 大岡忠相を長年演じた加藤剛さんが亡くなられましたね。大河ドラマでは平将門も演じ、石田三成も好演されましたね。
顔が大きく声に張りのある、見栄の利く時代劇には欠かせない俳優さんでした。
ご冥福をお祈りします。
つづく