梅雨の最後の大暴れ!
しっかしまぁ、よく降りますね。
今朝、岡山の兄から電話を貰い、『信州を旅行中じゃけぇど高速が止められとるけぇ帰れん様なった…』そうです。
ネットで確認してみると、うん、近畿、東海、北陸で東西が完全に遮断されていますね(^-^;
今夜までに我が家に到着予定。
連日の“雨読日”なのでまたブログ更新。
今日は5月の中旬に別宅の古民家から近い“長谷寺”“室生寺”を訪ねた内容をUPします。

大和政権初期の“飛鳥京”や“藤原京”があった現在の明日香村や橿原市から東国へ向かう主要道路で、後世の東海道にあたる役割の道ですね。
したがって、沿道には古くから建立された歴史のある寺院が点在します
どちらも関西では超有名な寺なので、物珍しさはありませんが、『雨の平日』という好条件が重なり、静寂・荘厳・幽玄…を堪能できました。
【真言宗豊山派総本山 長谷寺】
“長谷寺”という名の寺は日本全国に200寺以上あるそうです。
鎌倉の“長谷観音”もそうですし、信州真田郷の昌幸の菩提寺*もそうです。
*ちょうこくじ
しかし、この奈良の長谷寺が歴史も寺格もあり、やはりメジャーの様です。

駐車場で料金5百円を払って、仁王門へ
仁王門を見てビックリ! デパートの中元セールみたいです(*_*)
門内で入山料5百円と御本尊の特別拝観料(この機会だから)千円を払います。
同時開催の観音様軸大開帳(また別途千円)は遠慮しときます。
仏様のバラ売りとはなんか…えげつな~(*_*;

“下登廊”と呼ばれる屋根付きの石段で登って行きます

登廊の両脇にはズラリ塔頭が並び、子院の数は10以上ありそうです

山腹だから何処も石垣の上に建っていて、なんだか往時の安土城大手道の風景を連想します(^-^;

塔頭のひとつ『月輪院』に入って見ます まだ牡丹が咲いてますね

月輪院では抹茶を頂きながら門前町と境内の景色が楽しめます はい、また5百円也。
長谷寺の創建は朱鳥元年(686)と言いますから、本当に古いもので、承和14年(847)には官寺に指定されて、国の事業として維持保全がなされて来ました。
平安時代になると“観音霊場”として貴族や武士の信仰を集め、度重なる失火や兵火に焼かれるも、その都度時の有力者の寄進により再建を重ねて来ました。

登廊と塔頭の様子が良く判りますね 奥の建物は本坊で重文です

また『上登廊』と呼ばれる石段で本堂へ登って行きます 石段は仁王門から399段だそうで、何て事はない(^-^;

本堂に着きました。 国宝建物で、徳川家光の寄進により、大工頭は天下普請の中井正清が務めました。そういえば何となく、望楼型天守の下層部分ぽいですね。まさに宝です。

初瀬山に霧が登って行きます、もう雨が上がるのかなぁ? 御朱印も、千円くらいは取られそうだなぁ…

鐘楼と三百余社(手前)も凝った造りの重文です

長谷寺は別名『牡丹寺』とも呼ばれ、至る所に大輪の牡丹が植えられています

さて、本堂のご本尊『十一面観音立像』の特別拝観。撮影禁止なので写真はネットから拝借
写真は内陣の祭壇越しに観た御本尊様ですが、実はご本尊のおわす内々陣に特別に入れてお足元をグルリ一周出来るのです。
写真ではそうは見えませんが、この観音像は10m以上ある巨大な木像なのです。

この本堂も清水寺みたいな“懸造り”で、舞台からは境内が一望できます 右の杉の木は源氏物語にも登場するそうですが…よう知らん
当初は東大寺の末寺という位置付けであったものの、平安時代中期には藤原道長の意向により興福寺系の末寺となり、戦国末期の天正16年(1588)、豊臣秀吉に根来寺を追われた新義真言宗門徒が入って僧正専誉により真言宗豊山派が成されると、その総本山となり現在に至っています。

雨に濡れる嵐ノ坂の石畳 こんだけ人が居ない景色は初めてです

五重塔さん(敬語)に来ました。 まだ新しく見えますが、昭和29年建造の64歳です(^-^;

以前にあったのはこの場所ですが、明治初期に落雷により焼失しました

五重塔の横にある『本長谷寺』のお堂 創建当初の長谷寺はこの小さなお堂からのスタートだった様です

本坊エリアに降りて来ました 見事な牡丹です

本坊の門内は牡丹園さながらで、大輪で咲き誇っていますね

本坊の建物群は大正時代の建物ですが、重文8棟です

本坊から見る初瀬山中腹の本堂

麓の門前町もしっとり落ち着いた風情でした
続いて、室生寺へと向かいます

宇陀川沿いの室生口にある弥勒摩崖仏 後鳥羽上皇の勅願で彫られたといいますから、鎌倉初期の作品ですね
【真言宗室生寺派総本山 室生寺】
『女人高野』と呼ばれる室生寺、真言宗の総本山である高野山は近世まで女人禁制でしたが、室生寺は女性の参詣も受け入れたのでその別称があるだけで、『尼寺』ではない様です。

雨は上がりましたが、山々には霧が掛かって、よりいっそう幽玄な風景です

あの太鼓橋を渡ると室生寺境内です

表門です お寺側も“女人”を意識的に使っていますね
室生寺も創建は奈良時代末期の宝亀年間(770- 781)と古く、興福寺の僧・賢璟によって開かれました。
その目的は興福寺の僧が俗世を離れて修行する場、即ち“道場”であったそうです。
その後も興福寺の末寺として推移した様ですが、現在の真言宗寺院となるのは江戸時代のことです。

入って左手の本坊は非公開です、たぶん

右手に立派な仁王門があり、その奥に境内は広がっています このエリアはあいにく工事中で、ちょっと雑然としています

金堂へと続くこの石段は“鎧坂”と言います ん?

金堂の建て方も、回廊を張り出して一気には攻め込まれない様に造られています(?)

そうなんですよね。 このお寺、“女人高野”のソフトなイメージとは裏腹に、城塞的な色彩を強く感じます 本堂への道もこの通り

本堂の周囲にはまとまった平地が造られ、このお寺の成り立ちはともかく、中世には興福寺僧兵の訓練所または奈良を追われた際の最終闘争拠点だったのではないか? などと勘繰ってしまいます。

しかし… 眼に青葉、圧倒的な新緑です(^^)
元禄7年(1694)、真言宗寺院となった室生寺に、5代将軍:徳川綱吉の生母の桂昌院が2千両もの寄進をし、堂塔伽藍の大修理が行われました。
綱吉と桂昌院は真言宗豊山派寺院への帰依が深く、亮賢、隆光といった長谷寺出身のの僧を重用しています。

また石段を少し登ると、五重塔が覗いています

小型ながら法隆寺の塔に次いで古い五重塔で、国宝です

五重塔の脇から、今回初めて奥ノ院へと挑戦します(^-^;

杉の巨木の中を参道の石段が延々と続いています

もう気分は根小屋から詰め城に向かう様なモンですよ。 防御の遺構なんか探しています(^^)

本当に延々と続きます。 後悔が脳裏をかすめ出した頃…

幻想的に現れた奥ノ院常壇堂
『生類憐みの令』を進言したのも彼らという説がありますが、大改修の4年後に室生寺はそれまでの護国寺傘下から真言宗豊山派の長谷寺の傘下に替わっていますから、何らかの政治活動があったのでしょうね。

このお堂も高い懸造りになって崖上に建っています

奥ノ院は檀家の位牌を安置する“お霊屋”になっていました

この舞台からは山々を駆け抜けてゆく雲の姿が雄大でした

おっと、このアングルは欠かせませんね(^-^;

周囲は杉の大木の樹林で、直径2~3mクラスがザラにあります

岩陰にひっそりとあった五輪塔 誰の墓かは判読できませんでした
今日の様に真言宗室生寺派を成してその大本山となったのは昭和39年(1964)ですから、ごく最近の事です。