台風7号の予想進路がだんだん南に下がってきて、影響が出始めました。
進路の東側にあたると風雨が激しくなるので、くれぐれもご注意くださいね
 
 
 今日は三重でも朝からゲリラ的な雨に見舞われて、屋外活動も自粛の日なので、取材済みでアップが滞っているこのシリーズを書いて“借金返済”して行きます(^-^;
 
 
 
 東京駅近辺の大名小路を歩いて来ましたが、今回は有楽町から日比谷へと辿って行きます。
 
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17.阿波 徳島藩上屋敷
 藩主:蜂須賀阿波守斉裕  藩祖:蜂須賀家政  石高: 25万7000石
 所在地:千代田区有楽町1丁目
 現状の姿:有楽町駅、よみうりホール、他
 
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銀座に隣接する有楽町はデパートや量販店が建ち並ぶ繁華街です。 高級店の銀座に比べ敷居の低い、庶民の街です。
 
 江戸開府当時、織田有楽斎長益(信長の末弟)が屋敷を構えた事に由来するという有楽町。*南町奉行所辺りか?
大名小路が続くこの地には、土佐藩邸に隣接して領国も隣り合わせの徳島藩蜂須賀家の上屋敷がありました。
 
 領地が境を接する大名同士が仲が良い…という事例はあまり聞きませんね。
この両家も、国元では揉め事が絶えなかった様です。
互いに一国の国持ち大名であり、四国で一二を争う石高ですから、ライバル心も沸くのでしょうね。
 蜂須賀家の家祖はもちろん豊臣秀吉が草創期の第一の協力者:蜂須賀小六正勝です。
一方の山内家はその頃の秀吉に仕官した山内一豊が祖ですから、蜂須賀家から見れば“成り上がり者”という視線があったかも知れません。
 
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東京駅至近の地で地方の企業の支社なども多く、一歩裏に入ればオフィス街と化すのも有楽町の特徴ですね。
 
 維新の討幕では圧倒的に土佐藩が活躍する為、徳島藩の陰は薄く感じてしまいます。 
また土佐藩の仕業かどうかは判りませんが、天皇や公家の間では『蜂須賀小六は盗賊の親玉』説が定着していて、最後の藩主:蜂須賀斉裕が明治天皇の宴席に招かれたとき、菊紋入りの酒盃を下賜されたものと思って懐に収めたところ、天皇から『血は争えんのう…』と揶揄われたそうです(^-^;
 

 
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有楽町駅南の阪急百貨店は南町奉行所の跡の筈ですが、探しても碑や看板がありません。
意外にも駅の中央口に石碑が在る様です。
 
 

 
 
 
35.備後 福山藩上屋敷
 藩主:阿部播磨守正方  藩祖:阿部正邦  石高:11万石
 所在地:千代田区内幸町1丁目
 現状の姿: 帝国ホテル
 
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日比谷公園の緑越しに見える帝国ホテル
 
 備後福山藩の上屋敷跡には帝国ホテルが建っています。
格式も、もてなしも、お値段も日本最上位の超高級ホテルです。
庶民が泊まる機会は、これからも無いでしょうねぇ。
 
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日比谷通りに出て見るとセレブな客層なのがよく判りますね(^-^;
 
 阿部家は家康の譜代家臣ですが、『安祥譜代七家』と呼ばれる松平氏古参譜代家のひとつです。
歴代の当主は幕府の要職にあって、小田原、岩槻、宇都宮などの要地を所領としていました。
 幕末の日米和親条約を結んだ大老の阿部正弘が特に有名ですね。
 
 

 
 
 
 10.肥前 佐賀藩上屋敷
 藩主:鍋島肥前守直大  藩祖:鍋島直茂  石高:35万7000石
 所在地:千代田区日比谷公園1
 現状の姿:日比谷公園
 
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日比谷門跡から日比谷公園に入る辺りは江戸城の石垣が残っています
 
 日比谷公園へと入って行きます。
南東部分にはまだ屋敷地の名残がありますが、此処にあったのが佐賀藩鍋島家の上屋敷でした。
 幕末の“薩・長・土・肥”の肥前藩ですが、鍋島閑叟(直正)という名君に恵まれた佐賀藩は、早くから海外の先進技術の習得に努め、日本の産業革命の先駆けとなった藩でした。
 日本で最初に製鉄所を作り、蒸気船や蒸気機関車の製作にも成功し、反射炉の実用化に成功したのも佐賀藩が最初でした。
 
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大名庭園の池が残ってるのかと思いきや、此処は日比谷濠から外堀へとつながる堀の跡ですね
 
 そうした技術に支えられた強い軍事力を持ちながら、佐賀藩は政治への感心を示さず、持てる力の大半を産業や医療などへと振り向けて、大きな事績を残します。
 その結果、明治新政府における主導権を取る事はありませんでした。
しかし、経済主導の新しい国の形が成し得たのは、佐賀藩に依る所が大きいのは明らかですね。
 
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佐賀藩の上屋敷跡は江戸初期には、仙台藩の屋敷が在った様ですね
 
 

 
 
.長門 萩藩上屋敷
 藩主:毛利大膳太夫敬親  藩祖:毛利輝元  石高:36万石
 所在地:千代田区日比谷公園1
 現状の姿: 日比谷公園
 
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萩藩邸の庭園の名残りか? 築山があります
 
 日比谷公園の東半分を二分する形で、佐賀藩邸の北隣にあったのが、萩藩毛利家の上屋敷です。
江戸時代を通じて忍従を強いられた毛利家であり、内に秘めながらも最も反幕的な思考をしていたのが毛利家であったと思われます。
親徳川の大名家に囲まれながらも、幕末の討幕へと繋がる思想をどの様に維持し続けたのか…。
興味深いところですね。
 
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維新を主導した雄藩の割に、その藩邸の痕跡は何も残していません。率先垂範ですね
 
 萩藩最後の藩主:毛利敬親は、家臣達から“そうせい公”と渾名されていました。
家臣からの具申に対しての口癖が『そうせい』だったからだそうですが、暗君…という事ではなく、どうやら『判る者、見える者の意見を大事にする』とゆう事の様です。
 西郷吉之助も長州藩士だったなら、遠島になる事は無かったかも(^^
 
 

 
 
22.陸奥 盛岡藩上屋敷
 藩主:南部美濃守利剛  藩祖:南部利直  石高:20万石
 所在地:千代田区日比谷公園
 現状の姿: 日比谷公園、日比谷公会堂
 
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盛岡藩邸が在った日比谷公会堂周辺
 
 日比谷公園の西の端一帯には盛岡藩南部家の上屋敷がありました。
盛岡藩は江戸時代を通じ、転封はなく、岩手県の大半と青森県の一部という広大な領地を持った大名でしたが、寒冷地という事もあり、76回もの飢饉に見舞われる苦しい藩の運営を強いられました。
 
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日比谷公会堂はドリフの『8時だよ全員集合!』をやってた所かな? 記憶が正しければ…。
 
 個人的にも華々しい印象より、『壬生義士伝』の吉村寛十郎のイメージで捉えてしまいますね。
 
 
つづく