この地方、今年の梅雨は“カラ梅雨”っぽいスタートで、晴耕雨読を守っているとなかなかパソコンに向かえません(^-^;

今日は久しぶりの慈雨に恵まれたので、溜まる一方のネタを消化します。
三瀬の変
永禄12年(1569)大河内城の戦いでの和睦成立により、北畠具教は熊野街道沿いの山深い大台の地(三瀬谷)に館を設けて移り住み、出家して不智斎と号し実質の当主から隠居しました。
当主の具房もまた坂内城に退き、信長の二男:茶筅丸を養子として迎えて、具房には子がなかった為に妹の雪姫と娶せて新たな当主として家督譲ります。


家督を継いだ北畠信雄(信長の二男:茶筅丸)は津田一安などの側近を伴って大河内城に入りましたが、1年ほどで居城をより伊勢湾に近い田丸城に変更し、総石垣の城に改築して新たな本拠としました。
信雄はその後の“織田家の戦い”に北畠の兵を率いて参陣し、一向一揆との戦いや紀州攻めなどに転戦を続けて行きます。
一見すんなりと禅譲された形に見えますが、織田家との戦いが一方的な惨敗だった訳ではなく、将軍の命に従った形での和睦だっただけに、北畠家中の面々の織田信長の私的な戦いに対する意識は複雑で、戦意は低かった事が推察できます。

具教が館を構え隠棲した三瀬谷

そんな家中の面々が主と仰ぐのはやはり具教であって、最終的な判断や諸将に対する指示は具教が信雄と家臣団の間に入って調整していたのが実態の様です。
具教の真意としては、『四方に強敵を抱える織田家はそのうち行き詰まり分裂する、その時は…』と考えていたに違いなく、『その時まで北畠家を残すため、今は適当に信長の言う事を聴いておけ』というスタンスだった事でしょう。

三瀬谷の渓流沿いに館跡はあります


実際に三瀬谷に退いてからの具教の動きは活発で、信長との信頼関係が破綻した足利義昭とは真っ先に誼を通じていて、義昭の“信長包囲網”にも密かに参画しています。
具体的には、義昭が上洛を要請した武田信玄の元に家臣の鳥屋尾満栄を派遣し、西上作戦で伊勢湾を渡る際の軍船の手配を約し、同時に影響力の強い紀伊・熊野勢力も蜂起する手筈になっていた様です。
しかし、この信長包囲網も朝倉義景の不可解な撤退と信玄の死が相次いで起こり、信長にとっては奇跡的超ラッキーな展開になる訳で、具教の落胆たるや相当なものだった事でしょうね。



夢破れた後の天正3年(1575)、具教は隠居城と称して伊賀丸山城の築城を決め、扱いが難しい伊賀の土豪達に根回しして、翌天正4年から築城を始めますが、具教の意図を読んだ信長はすぐに中止を命じ、同時に信雄に“北畠具教とその一族の誅殺”を命じます。
*この2年後には信長による“伊賀征伐”が敢行され、その成功の決め手になったのは丸山城の存在でした。
天正4年(1576)11月25日、具教の住む三瀬館を信雄の命を受けた家臣の長野左京亮、藤方朝成の軍勢が襲撃し、具教は子の徳松丸・亀松丸、および十数名の家臣ともども殺害されてしまいました。
襲撃にあたって長野らは塚原卜伝直伝の北辰一刀流の使い手でもあった具教を警戒し、密偵を使って具教の愛刀が抜けない様に細工をさせたそうです。
または、具教は自在に大太刀まわりを演じ、襲撃側で斬り殺された者19名、手傷を負わされた者100名以上といった凄い伝説もあります(^-^;

北畠氏の実質当主の隠居所としては、ずいぶん手狭な印象ですが、あまり長居するつもりも無かったのでしょう


時を同じくして、田丸城には饗応の席と偽って具教の二男:長野具藤はじめ北畠一門の主立った者、有力な重臣が集められており、信雄の家臣の手に拠って同様に殺害されました。
翌26日には坂内城の坂内具房も殺害されてしまいます。
前の田丸城主で信雄に城を明け渡して後も信雄に協力的だった田丸直昌も、自城に立て籠もって抵抗の意を示しますが、信雄の説得に応じて開城し、その後も信雄に仕えました。
一連の粛清を逃れた反信長の旧臣達は、一族で霧山城代だった北畠正成のもとに集結して籠城しますが、羽柴秀吉らの軍に攻められ自決します。
この異変を知った具教の弟で、奈良興福寺で僧籍にあった具親が還属して飯高郡で挙兵しますが程なく鎮圧され、具親は毛利輝元を頼って西国に落ち延びたそうです。
前当主の具房はと言えば、名義上信雄の養父にあたり、実害がある程の人物でもない事から殺害を免れ、滝川一益の預かりとなって伊勢長島城に幽閉され、失意のうちに4年後に亡くなりました。
具教の娘で信雄の妻となっていた雪姫も、この後すぐに信雄が後室として木造氏の娘を迎えているので、自害したものと思われます。

館跡の南100mにある民家の庭先に在った胴塚 一旦持ち去られた首も旧臣の手で取り返し、多気郡内に埋葬されました

これにより南北朝争乱より戦国大名として伊勢に君臨した名門:伊勢北畠氏の血脈はほぼ絶え、は完全に織田氏に乗っ取られた形となるのですが、8年後の天正10年(1582年)、信長が本能寺に斃れると、後継者争いに名乗りを上げた信雄が織田氏に復姓したため、名跡さえも無くなってしまうのです。
伊勢北畠氏の終焉 おわり