☆大河内城の戦い
 
   永禄12年(1569826日、木造城を発った織田軍は、翌27日には大河内城(おかわちじょう)に到着し、北東の桂瀬山に本陣を置きました。
 織田軍の兵力は約5万で、大河内城を二重三重に取り囲む様に布陣して外部との往来を遮断孤立したそうです。
 
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 大河内に篭城した北畠軍は8千と言われ、この時点で領内の各城にまだ1万近い兵力が分散していた訳で、信長はその抑えに2万の兵を割いていた計算になりますね。
 
 
 
三重の城  大河内城  登城日:2018.5.7
 
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 城郭構造     山城
 築城主       北畠満雅
 築城年       応永22年(1415
 主な城主      伊勢大河内氏、北畠具教、織田信雄
 廃城年        天正4年(576年)
 遺構         曲輪跡、堀切・土塁
 指定文化財    三重県指定史跡
   所在地      三重県松阪市大河内町城山
 
 
 大河内城へは松阪からR166を南進し、『大河内地区市民センター』の駐車場を使わせてもらいましたが、ここの館長さんが大河内城をよく研究されている方で、当日も先方から声を掛けて頂き、沢山の資料と貴重な情報をいただきました。
 
 まだお若い(30代?)方ですがよく勉強されていて、特に書籍には載らない地域の伝承なども含め、有益なお話がたくさん聴けました。
これから出掛ける方は是非寄ってみてください。
 
 
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外堀となる坂内川に架かる城山橋から見る大河内城遠景 “山城”と紹介されていますが、比高差の定義では“平山城”かも知れません
 
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市民センター前の駐車場には案内看板がありました
 
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こちらは城郭体系の縄張り図です
 
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搦手の登城口にある西蓮寺には、北畠具教の供養碑がありました
南無阿弥陀仏の左側に『為北畠大納言菩提』と彫られています
 
 
 98日、信長は丹羽長秀・池田恒興・稲葉良通に総攻撃を命じ、進取の武器である鉄砲隊を先頭に3方面から攻め掛からせました。
 しかし、そう巨大でもない城域に8千の守備兵がひしめく籠城側の守備力も強力で隙が無く、戦意も旺盛で一進一退の激戦になったところ、急に雨が降り出して鉄砲が使えなくなり、深く攻め込んでいた部隊に多大な犠牲が出た事から、この時は一旦兵を引きました。
 
 
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登城路は集落の民家の脇から入る瀬古になっています 当時はたぶん家臣屋敷だった事でしょう
田植えが無事に終わった事を祝ってか、ある農家の庭先では家族でバーベキューを楽しんでいました(^^)
 
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この道は城址にある稲荷神社の参道として使われていますが、当時の登城路は左側の山道であり、細くて急斜度だった事が判ります
 
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登り詰めると二ノ丸跡で、石塁で覆われていますが、これは後世のモノでしょうね
 
 
 翌9日、軍議で“兵糧攻め”を指示した信長は、諸将に近隣の村々を焼き払わせ、実り間近な田んぼの稲もことごとく焼き払ったそうです。
 そればかりか、行先を失った村人たちを着のみ着のままで大河内城内に逃げ込む様に追い立てました。
 
 これにより大河内城内には軍民合わせて1万数千の人が溢れかえり、兵糧も見る見る底をつき始めました。
 一見、大成功に見えたこの織田軍の兵糧攻め作戦ですが、意外にも後で大きなシッペ返しを受ける事になるのです。
 
 
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二ノ丸の低い土塁で仕切られた奥は、広い平場になっています 表記は“馬場”とありますが、武者溜まりですね
 
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本丸に向かう道には石垣もありますが、この通路を含めて後世のモノでしょうね
 
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本丸跡には社務所の様な建物がありました
 
 
 9月も半ばになり、兵糧も尽きて来たと思われるある日、滝川一益が信長に総攻撃を進言します。
籠城の抵抗力を低く見積もった滝川一益の策は、本丸下から北西へと下って行く“マムシ谷”から攻め上り、一気に本丸を衝いて決着を付けるというもので、併せて自身の部隊がその先鋒をつとめるという志願でもありました。
 
 信長は総攻めの反省も踏まえて、さすがに時期尚早ではないか?と難色を示しましたが、伊勢方面の軍団長を一益に命じている以上、まだこれといった戦功を挙げていない一益の焦る気持ちも解ります。
 このまま近日中にどこかのタイミングで誰かが攻め込んで、一番乗りの手柄を手にする訳ですから、そのチャンスは一益にこそ優先的に与えるべきと考えて、この提案を承諾しす。
 
 
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本丸跡にも案内看板があり、こちらは縄張り図付きです
大河内城は本来は分家の大河内氏の居城でした。分家の筆頭は木造氏でしたが、北朝やら土岐氏やら長野氏やらに寝返り癖のある(それだけ前線に配されていたという事ですが…)木造氏に代わり、戦国期は大河内氏が筆頭の扱いであったそうです。
 
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公家大名ですから、此処には檜皮葺の立派な御殿があったのでしょうね
 
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本丸からマムシ谷方面を臨みます 土塁痕が重なっている雰囲気ですが、藪がひどくて良く判りません
 
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市民センターで貰った縄張り図 曲輪が丸いのが、当時の記述様式が感じられ、判りやすくてイイですね(^-^;
 
 
 翌日、手筈通りに滝川一益の部隊3千が先鋒で一気にマムシ谷を駆け上がって行き、後続の部隊がこれに続きます。
 マムシ谷の右手には西ノ丸という階段状に曲輪を配した堅牢な郭があり、左手の尾根にも同様な郭が配されていて、この間200mを駆け抜けると本丸土塁に辿り着きます。
 
 この両側からの守備兵の攻撃は予想通りに激しいものでしたが、滝川軍は次々に本丸土塁に取り付き、登り始めます。
その刹那、土塁上から物凄い雨あられの攻撃が滝川軍の頭上に降り注ぎました。
 
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本丸に堀を隔てて隣接する西ノ丸に向かいます
 
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此処には“奥宮”が祀られていますが、なんか…激戦のあった城址の雰囲気が感じられる郭です
 
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北側斜面には肉眼では段々に曲輪が重なっているのが見えるのですが… 小灌木に覆われていて写真には写りませんね(-_-;
 
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マムシ谷の上部には橋が架かって本丸と繋がっています 
織田軍の侵攻に備えてマムシを300匹ほど集めて来て放した…という伝承もあるそうですマムシは毒を抽出できるし、いざとなれば食料にもなる(普通のヘビは臭みがあるが、マムシは意外に美味しい)ので、有り得ない話ではありません
 
 
 一気に総崩れとなった滝川軍は命からがら退却して行き、その死傷者は有力な武将も含め千名以上にのぼりました。
 驚くことにその死傷者の傷ですが、刀槍や矢傷による者は少なく、その多くが固いものが直撃した事による打撲傷だったそうで、大河内城内に大量に蓄積されていた投石用の河原石による攻撃が最大に功を奏したという事の様です。
 
 ご存知の様に武士は刀槍弓の技を磨いて、戦場ではその腕で勝負をします。
その武士を補助する戦い方としてこの時期の城内には投石が蓄積されていて、それを使う役割は武術の心得を持たない避難してきた農民であり、婦女子なのですね。
 この戦いでは籠城する北畠の武士以上に、家を焼かれ田畑を荒らし尽くされた農民達の怒りが大きな武力となり、総力戦が展開された事の裏付けになる気がします。
 
 
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一ヶ所だけ谷底が見える場所がありました 此処を登ってくる敵兵めがけて石が降り注いだ現場ですね 残念ながら丸石はひとつも発見出来ませんでしたが。
雑木を切り払って檜だけにしてくれたら、眼前に凄い城が現れるんだろうな。
 
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最後に大手方面を見に行きます 馬場の地続きで本丸と二ノ丸の間は“御納戸”と呼ばれています たぶん倉庫群だった場所でしょう
 
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広い馬場を北に歩いて行きます
 
 
 また攻囲持久戦に戻ってしまった織田軍でしたが、この後俄かに和睦への動きが活発化して行きます。
 このままではいずれ飢え死にして全滅するしかない北畠側ですが、織田側にしても2ヶ月以上も戦力の大半をこの城に釘付けにされるデメリットも計り知れないものがあります。
 
 事の経緯は諸説あって、北畠具教から開城を打診したという説もあれば、信長が将軍:足利義昭に調停を依頼したという説まで様々ですが、実際の戦闘では織田側は敗戦続きで、ともかく圧倒的な兵力の差で“一気に圧し潰す”という戦法は諦めざるを得なかったという事だけは事実の様ですね。
 
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北東の櫓跡も高い土塁を備えた構造物である事が判りますが… 貴重な遺産が眠ったまま放置ですね
 
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大手口であると比定されている場所には夥しい石垣群があり、一瞬笑みがこぼれてしまうのですが…
 
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しかし残念ながら、これは江戸時代に段々畑を開墾した跡だろうと言われています
山の中腹まで石を運ぶ農民達は大変だったろうなぁ…と思いましたが
 
 
 明けて10月3日、両者の条件が折り合って和睦が成立します。
その条件とは
 
・北畠具教が隠居し大河内城を去る事
 
・当主を譲られて間もない北畠具房も隠居して大河内城を去る事
 
・北畠氏当主は信長の三男の茶箋丸(のちの織田信雄)が養子に入り、これに就く事
 
…でした。
 
 かくして、具教は大台の三瀬谷館に去り、具房も坂内城に移って、大河内城には茶筅丸が織田家臣と共に入って来て、具教の娘:雪姫を娶って名を北畠信雄と改めて政務を執ります。
 
 一見、織田氏の北畠氏乗っ取りは穏便に成功したかに見えますが、具教にはそれなりの思惑があっての和睦であり、この後更なる争いと悲劇が待ち構えているのです。
 
 
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この城にはこのサイズの河原石がゴロゴロしていたんでしたね、なるほど此処に集められていたのか(^-^;
 
 
つづ