三重に戻って最初の城歩きは、地元の戦国武将北畠氏の城から再開します。
 
 北畠氏は何度も取り上げていますが、南北朝の争乱で南朝側の主力として活躍した北畠親房の三男:顕能を祖とする国司大名です。
 
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北畠氏は村上源氏を祖とする公卿でした。したがって国司大名となってからも北畠の当主は二位、三位の官位が与えられ、他の守護大名が概ね四位止まりだったのに対し、格上の存在で、一族の居館は“御所”と呼ばれていました。
 
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北畠氏が本拠とした多気 山間の狭い谷間ですが、街道が通じていて吉野方面とも行き来が容易な要衝でした。
背後の山上には詰め城の霧山城があります。
 
 室町時代の国持ち大名は多くが“守護”大名な訳ですが、コテコテ南朝の北畠氏は伊勢の支配を朝廷から認められ(本当は自力で切り取った)ていて、幕府の守護に相当する役職が国司なのは律令制の昔からの事なので、一介の武家の親玉に屈した訳ではなく、“天皇の臣”である事を誇りにして名乗っていたのでしょうね。
 
 
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8代当主の北畠具教は武将・剣客としても知られた当主で、織田信長の侵攻にも果敢に立ち向かいました
 
 北畠氏は親房と長男の顕家の頃がピークとも言えますが、顕家が戦死した後も弟の顕信が奥州で活躍し、地盤の伊勢は末弟の顕能が守り、顕能の子孫が戦国末期まで支配して行くのです。
 
 
 
☆阿坂城の戦い
 
 永禄10年(1567)、織田信長は滝川一益を先鋒に、伊勢進攻を開始します。
北勢48家を攻めて、多くを傘下に収めた信長は、永禄11年(1568)には神戸氏(関氏)、長野氏とも養子を送り込む有利な条件で和睦して、伊勢8郡を手中にします。
 
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 残るは南伊勢5郡を領する北畠氏だけですが、この頃の北畠氏は志摩国を傘下に収め、東紀伊、伊賀、大和にも勢力を延ばしていて、およそ2万の兵力を擁する強大な戦国大名でした。
 
 信長はまず調略戦を使い、滝川雄利が北畠具教の弟で木造家を継いでいた木造政の調略に成功し、北畠領内に橋頭保を確保しました。
 
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阿坂城へ登るための拠点となる浄眼寺 根古屋跡と思われる立地です
 
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この寺は北畠満雅の菩提寺にもなっています。 北畠氏は笹竜胆紋の他に菱紋も使いました。
 
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寺の境内から発する登城路は、ハイキングコースとして良く整備された道で、この日もたくさんのハイカーで賑わっていました。
 
 思わぬ寝返りに危機感を強めた北畠具教は、本拠の多気御所(霧山城)から大河内城へと拠点を移し、木造城奪還を試みるとともに、全面対決へと備えます。
 永禄12年(15698月、岐阜を発した信長は総勢7万の兵で南伊勢へと駒を進めて来ました。
 
 
 
 
三重の城  阿坂城  登城日:2018.5.7
 
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 別名        白米城&椎之木城
 城郭構造    山城
 築城主       北畠親房又は北畠満雅
 築城年       文和元年/正平7年(1352年)以前
 主な城主    北畠氏、大宮氏
 廃城年       永禄12年(1569年)
 遺構        堀切・土塁
 指定文化財   国の史跡
 
 
 阿坂城は北畠氏が初めて伊勢に下向した時に、北畠親房、顕家親子によって造られた城と言われます。
 伊勢平野を広範に見下ろす阿坂山の山頂に築かれたこの城は、伊勢北部の勢力を牽制するのに有効だった様で、南北朝合一後の約束不履行に怒って挙兵した4代後の当主:北畠満雅も此処に籠って、一色、土岐、京極、山名などの幕府軍と戦いました。
 
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300m近い比高差を登り始めると、さっそく現れる堀切や土塁遺構 
 
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整備はされていませんが、山上だけの城址ではない様です
 
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山上の郭は2つに分かれてる様で、最初に現れるのが椎ノ木城、奥にあるのが白米城と呼ばれていて、合わせて阿坂城の様です。
地元での看板表記などは、すべて白米城で統一されていますが…。

 
 織田信長の大軍が南下して来ると、北畠具教は木造城の囲みを解いて大河内城に戻り、各城にも兵を戻して籠城戦を指示します。
 一旦木造城に入った信長でしたが、すぐに具教を追って南下し、他の支城群には目もくれず、一気に大河内城を目指します。
ただ、要衝の阿坂城だけは家臣の木下藤吉郎に命じて攻めさせました。
 
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山ツツジももう終わりかけていました
 
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やっとの事で尾根に辿り着くと、風が通る場所に手造りのベンチが設えてありました 粋な事しますね(^^)
 
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尾根道をもう少し登って行くと、椎ノ木城の虎口に到着したみたいです
 
 
 阿坂城は大宮入道含忍斎という重臣が守っていましたが、名うての堅城なうえ高城、枳城といった支城のネットワークもあり、千名規模で守っていたと思われます。攻城側の藤吉郎に預けられた織田軍は、少なくとも3千以上だった事でしょう。
 
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椎ノ木城は尾根を急角度に断ち切った切岸から始まります
 
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尾根上を広く削平した南北に細長い単郭構造の様です
 
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しかし奥の方は周囲を土塁が巻いていて、ひょっとしたらこちらが主郭として活用されてたのかも知れません。
 
 
 木下藤吉郎はもちろん後の豊臣秀吉ですが、この時は2年前に墨俣築城で才覚が認められ、京都の奉行職にありました。
戦働きよりも管理能力を信長から認められていた訳ですが、この時代そうしたエキスパート制が浸透している訳も無く、新参者の藤吉郎には肩身の狭い日々だった事は想像に難くありません。
 
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郭上から降りる道が無かったので、引き返して今度は土塁下の道を奥に進んで行きます
 
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道沿いに堀切痕が何ヶ所かありました
 
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そして白米城へと登って行きます
 
 
 信長はそんな藤吉郎を慮って、この機会に戦功を立てさせてやりたいと思っていた節がありますね。
 しかし、実際の戦いはそんな簡単には進まず、天険に拠った北畠軍の頑強な抵抗と、藤吉郎に属した織田家臣達の戦意の低さが相俟って、苦戦を強いられます。
 
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郭上に登って行くと、急に視界が開けて行きます。 1時間掛けて登って来ただけに、相当な標高になっているのが判ります(^-^;
 
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郭上は300坪ほどの真っ平らな平場になっていました
 
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中央には城址碑が起立していますが、なんだか神々しい雰囲気
 
 
 焦った藤吉郎はついに自ら先頭に立って突撃するという危険を冒し、城兵の放った矢に左膝を射抜かれるという、生涯で唯一の戦傷を負ってしまいました。
 しかし、大将:藤吉郎の負傷は織田家臣の戦意に変化をもたらし、総攻めに転じた結果、大宮入道含忍斎は降伏開城を決意しました
 
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東側の端まで行くと、眼下に副郭の曲輪を備えています
 
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北伊勢方面まる見え!
 
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南伊勢方面もまる見え! これは…敵の動きを見定めるために、貴重な拠点だった訳ですね。
 
 
 落城した山城の阿坂城はその後の織田信雄や藤堂高虎などの領主に活用される事はなく、この時を以って廃城となった様です。 
 
 
つづく