埼玉の城 高見城 登城日:2018.2.11

別名 四津山城
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 石井政綱
築城年 治承年間(1180頃)
主な城主 石井氏、増田重富
廃城年 天正10年(1590)
遺構 土塁、堀切、腰郭
指定文化財 県指定史跡
所在地 埼玉県比企郡小川町高見
埼玉の城のネタは一旦これが最後になります。
高見城址は比企丘陵の北端、比高100mの四津山の山頂にあります。
築城時期は小川町にある青山城の城主:青木氏の記録に、“治承4年(1180年)、配下の石井九郎右衛門政綱が居住した” とあるので、ちょうど腰越城と同じタイミングで同じ目的を持って築城されたものと思われています。

四津山神社参道入り口に路駐します ちょっと広くなってて交通の邪魔にはなりません

真っ直ぐに登って行く参道 その奥には急な石段が見えてるし…(^-^;

石段の麓に着くと、左手に“犬走り”の看板 山の中腹を一周してる様です

右手にはお不動さんが。 この奥に進むと“女坂”だそうですが…

頑張って王道の石段を登ります! ひえ~、40度くらいありそう
戦国時代に入ると、増田四郎重富が城主であったらしく、山内上杉氏の傘下にあった鉢形城の支城として機能していたとみられます。
記録は無いものの、長享2年(1488)と明応3年(1494)の二度に渡って高見城の東の地域で戦われた扇谷上杉氏vs山内上杉氏の高見ヶ原合戦では、この城は重要な役割を果たしたものと考えられます。

一気に登りました(^^♪

山上は四津山神社の境内で、此処が本郭だった様ですね

境内にあった城址看板と縄張り図

東の熊谷方面 独立峰だけに眺望は360度です

戦国後期の北条氏の治世では、“松山衆”ではなく“鉢形衆”に枠組みされていたらしく、天正18年(1590)、秀吉の北条征伐では北条氏邦配下の一軍が高見城に籠ったものの、すぐに鉢形城に引き返して籠城した旨の記録が残されています。
同年、北条氏の滅亡とともに廃城となりました。

社殿の東側 二ノ郭へ向かう道との間が土塁で仕切られ、その向こうは空堀になっています

堀のむこう側には小郭があり、武者溜まりになっているから、明らかに重要な郭の虎口ですね

二ノ郭は本郭ほど広くはありませんが、土塁が巻いて厳重な防備です

三ノ郭へ 一旦下がってから幅広い削平された尾根を登って行きます

高見城址の主郭跡には四津山神社があり、地元の氏神として維持されています。
この神社の参道が登城路となりますが、坂道と石段で真っ直ぐに登攀するため、かなりな急坂です。
城の構造は山頂部を削平した連郭式の山城で、初期の城あるいは詰め城の形式を強く残します。
つまり、自衛隊みたいに専守防衛に特化した、反撃するにはゾロゾロと山を降りて行かなければならない極めてディフェンシブな城です。


山頂の最悪な条件で、4百年以上前の土塁がこの高さで残るのは異例ですね。余程の高土塁だったのか?

その奥は深い堀切になり、土橋で北の尾根道に続いています

降りてみると、段差は7mくらい

戦国末期に鉢形城の支城として機能させるには心許ない構造ですが、山頂からの眺望は四方に開けていて、監視所、信号所としてはこの上ない立地にあります。
おそらく城名の通り、そんな機能で残った城なんでしょうね。