引き続き大名小路を南下して行きます。
 
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 福井藩邸の最寄の見附は“常盤橋門”でした。

 
 
 
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何度か訪ねた常盤橋見附のもう5年越しの改修工事、1年前と比べても進捗が見えません。 東京都は本当に完成させる気があるんでしょうかね?
 

 
 
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福井藩邸の東側の外堀沿いは雰囲気の良い遊歩道になっていました
 

 
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勘定奉行所跡 常盤橋門を入るとすぐ有りました。もちろん何も残ってはいませんが…。
 
 
 

 
6.肥後 熊本藩上屋敷】
藩主:細川韶邦  藩祖:細川 忠利 石高:54万石
 所在地:千代田区丸の内1−6−4 
 
 現状の姿:丸の内オアゾ、丸の内北口ビルディング、丸の内センタービルディング など
 
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もう20年ほど前、この辺りにあった富士通さんの会議室を借りて会議してた時期がありましたが、窓から見える風景は地方都市の駅前でした(^-^; ずいぶん様変わりしましたね。
 
 細川幽斎、忠興の細川家ですね。
江戸初期には豊前小倉40万石に配された細川家ですが、加藤家の改易で熊本へ加増転封となりました。
 
 初代藩主の忠利は加藤清正の(豊臣色の強い)熊本城を使う事に、相当気を使った様ですが、幕府からの信頼は厚かった大名です。
生母はガラシャであり、春日局人脈の一人でもあります。
 また忠利は武芸にも造詣が深く、柳生宗矩のもとで新陰流を会得し、秘伝の『兵法家伝書』を与えられています。
宮本武蔵を招聘して庇護したのも忠利でした。
 
 
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東京駅前の地方からの人が集まりやすい日本一の立地は、ビジネス街からショッピング街へ、日本の社会構造の変革を象徴していますね。
 
 細川家の統治は穏やかなもので、江戸時代を通じて“百姓一揆”は一度もありませんでしたが、その分藩財政はいつも火の車だったと言います。
 幕末には、藩論が勤王党、時習館党、実学党の3派に分かれて統一できず、横井小楠、宮部鼎造などの有能な藩士を出しながら、討幕を主導する事は出来ませんでした。
 やはり財政が豊かでないと攻めの藩論は推進し難く、密貿易で潤う薩長を横目に“生真面目な細川家”の藩政がどんなものであったか、見える気がします。
 
 

 
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伝奏屋敷跡の日本工業倶楽部ビル 熊本藩邸と江戸城の間には『伝奏屋敷』がありました。
朝廷の使節が下向した際に宿所となる屋敷ですね。
 

 
15.備前 岡山藩上屋敷】
藩主:池田茂政  藩祖:池田光政 石高:31万5千石
 
 所在地:千代田区丸の内2丁目4-1 
 
 現状の姿:丸ビル、郵船ビル、三菱商事ビル など
 
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岡山藩邸跡に建つ丸ビルと背後のビル群 新丸ビルは浜田藩(越智)松平家の藩邸跡です
 
 秀吉の重臣だった池田輝政は、関ヶ原の後には姫路52万石に加増移封され、さらに淡路6万石、岡山28万石も加増されて、俗に“姫路宰相百万石”と言われました。
 この石高は加賀百万石:前田家に次ぐ大大名であり、輝政の子孫達は分割して相続して行く事になります。
 
 まず輝政が死去すると姫路領は長男の利隆が継ぎ、淡路領を三男の忠雄が継ぎます。
次男の忠継は岡山領を継ぐのですが、家康の外孫にあたる忠継には姫路領のうち10万石が分地されました。38万石の岡山藩主:忠継は17歳で早世したため、弟の忠雄が継いで繋げますが、淡路領は没収されてしまいます。
 また、忠継の幼い弟3人も分地して独立したため、岡山藩は31万5千石となりました。
 
 一方、姫路藩の利隆も翌年に33歳で死去し、嫡男で7歳の光政が継ぎましたが、“幼君に姫路は無理”との幕府の判断で、鳥取32万石に減転封となっています。輝政亡き後の僅か10年ほどで20万石余りが上手く幕府に収公されてしまった訳です。
 
 
 
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右側が岡山藩邸跡の丸ビルです。現在でも一等地ですね。岡山藩は道路を挟んだ東側、現在の東京駅舎の辺りにも中屋敷がありました。
 
 その後、岡山藩主の忠雄が31歳で死去すると、嫡男の光仲はまだ3歳だったため、山陽の要地岡山を重視していた幕府は鳥取藩の光政との交替を命じます。
つまり同族同士の国替えが岡山と鳥取の間でなされた訳ですね。
 
 温暖で気候も穏やかな岡山を得た光政は、その後の藩政に手腕を発揮して、徳川光圀、保科正之と並んで“江戸時代の三名君”と呼ばれました。
 
 

 
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東京駅の丸の内側駅舎は岡山藩中屋敷と宮津藩松平(本庄)家上屋敷跡に建っています
 

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東京駅日本橋口にあるシャングリラホテルは北町奉行所跡の様です 石垣がイメージ復元されていました
 

 
41.美作 津山藩上屋敷】
藩主:松平(越前)慶倫  藩祖:松平宣冨(高田藩) 石高:10万石
 
 所在地:千代田区大手町1丁目9-2 
 
 現状の姿:東京駅
 
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東京駅八重洲口辺りは美作津山藩の屋敷跡でした。
 
 津山藩は津山城の築城とともに“森家”の藩として馴染みが深いのですが、森家が5代で改易になると、松平(越前)家が入り明治維新まで続きました。
 
 松平越前家は前回福井藩の所で書いた様に、結城秀康の家で、越前福井85万石の大藩でした。
 秀康亡き後は嫡男の忠直が継いだのですが、忠直が幕府に反抗的だった為、流刑に処されてしまいます。
 
 忠直の所領はその弟たちが分割して受け継ぎ、
次男:忠昌 越前 福井藩 32万石
三男:直政 出雲 松江藩 18万石
五男:直基 上野 前橋藩 17万石 
六男:直良 播磨 明石藩  8万石
…といった具合に元が大きいだけに大きな藩がいくつも並立する訳です。
 
 宗家は…というと、越前福井を受け継ぎ石高も最大の忠昌の福井藩となる所ですが、ややこしい事に幕府は後に忠直の子孫(嫡流)に美作津山10万石を与えた為、越前家宗家をめぐりゴタゴタが絶えなかった様ですね。
 
 幕府は福井、津山両藩を均等に扱い、その待遇は御三家、御三卿と同等だったと言います。
 
つづく