未完のまま放置していたこのシリーズ。
このままバックレるか… とも思いましたが、それも後味悪いので、桜めぐりに続いて頑張って歩いて来ました(^-^;

*データは幕末基準です
これ、ですね。
10万石以上の藩の上屋敷の跡地を訪ねて、現在の姿を見て歩きます。
江戸城の北側、北西、北東方面は終わってるので、7回目は“大名小路”から入って行きます。

江戸城の東側、内堀と外堀(現在は埋められて消失しています)の間の郭を“丸ノ内”と呼んでいました。
この郭は江戸城の大手口にあたる事から、大名屋敷も家門、譜代、外様を問わず主要な大藩の屋敷が並んでいた事から、“大名小路”とも呼ばれていました。

江戸時代の大名小路の絵(銀座かな?)八重洲地下街にありました

【28.豊前 小倉藩上屋敷】
藩主:小笠原忠幹 藩祖:小笠原忠真(明石藩) 石高:15万石
所在地:千代田区大手町1丁目7-1
現状の姿:読売新聞東京本社、東京サンケイビル など

小笠原氏は甲斐源氏の一族で、武田氏、南部氏とは同族です。
戦国時代には信濃の伊那、安曇を領しましたが、信玄に進攻されて越後へ亡命し、御館の乱では景虎を支持したので会津の蘆名氏を頼って逃れます。
徳川家康の関東入りで臣従すると、大名として信濃に復帰しました。

小笠原忠真は1代にして松本→明石→小倉と転封を重ねた苦労人ですが、その度に加増を得て15万石にまで増やします。
忠幹は実質の最後の藩主ですが、その死と長州藩の進攻(第二次長州征伐)が重なり、藩内は混乱して小倉城を焼いて退避する…という失態を演じてしまいました。
【25.播磨 姫路藩上屋敷】
藩主:酒井忠績 藩祖:酒井忠世(雅樂頭家) 石高:15万石
所在地:千代田区大手町1丁目1-1
現状の姿:大手町パークビル、日本政策投資銀行 など

酒井(雅樂頭家)の屋敷跡には巨大なビルが建設中 無機質な風景に春の花が彩りを添えています
酒井氏は松平氏初代の広親の末子が酒井を名乗った一族ですが、家臣として松平→徳川を支えた筆頭家臣の家柄です。
その後家系は二つに分かれ、雅樂頭家は江戸時代には井伊、土井、堀田家とともに大老四家と言われた家で、4人の大老を出しています。
その貢献度が屋敷地の広さに現れている様です。

雅樂頭家の屋敷地は広大で、隣の黒いビルもそうです
酒井家の大老で著名なのは“下馬将軍”と呼ばれて権力を欲しいままにした忠清です。
しかし真実は、忠清の権勢を怖れた諸大名が酒井邸の前では馬を降りて歩いた…訳ではなく、屋敷地が江戸城大手門の門前で、ちょうど下馬札が立っていただけの様です。
一種のやっかみですね。
実際の忠清像は、小柄で明朗快活な人で、歌舞音曲を好む風流人だったそうです。
また、子供はみな正室の子という愛妻家でもあった様です。
家光の後の家綱、家宣の治世で緩みつつあった幕政を引き締めた有能な重臣だった…という事の様です。

【29.出羽 鶴岡藩上屋敷】
藩主:酒井忠篤 藩祖:酒井忠勝(左衛門尉家)石高:16万7千石
所在地:千代田区大手町1丁目9-7
現状の姿:大手町フィナンシャルシティ

酒井左衛門尉家の屋敷は一橋屋敷の向かいにありました
もう一つの酒井家、左衛門尉家は四天王筆頭の酒井忠次の直系の家です。
幼少期から天下取りまで、家康を分身の様に支えた忠次が譜代筆頭に扱われしかるべき功績ですが、江戸期の処遇にはやはり“信康事件”が影を落としているとしか思えませんね。

三菱系のオフィスビル群が林立して、賑わっています
また、嫡男の家次が同年代の井伊直政らと比べるといかにも凡庸で、徳川が大きく変わるタイミングで主要な場に使えなかった…という時代のツキも無かったと言えますね。
外様並みに東北の大藩に収まった左衛門尉家は、後の藩主も制約を強いられて活躍の場を得られませんでした。
【13.越前 福井藩上屋敷】
藩主:松平茂昭 藩祖:松平秀康(越前家) 石高:32万石
所在地:千代田区大手町2丁目3-5
現状の姿:NTTコミュニケーションズ

福井藩屋敷跡の広大な地はNTTが占拠していました
松平越前家は結城秀康の家です。
将軍秀忠にタメ口で話し、秀忠が敬語を使う唯一の大名だったのですが、秀康が早世した後は跡継ぎの質に恵まれず、秀康の所領85万石は5家に分割されて続いて行きます。
福井藩を継いだのが長子ではなかったので、津山藩、松江藩などと宗家争いが残ってしまいますが、幕末になって慶永(春嶽)という名君が出た事で、福井藩が宗家という観念で落ち着いた気がしますね。