埼玉の城  腰越城  登城日:2018.2.10
 
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 城郭構造     梯郭式山城
 天守構造     なし
 築城主       山田伊勢守清義
 築城年       治承4年(1180)
 主な改修者    山田伊賀守直定
 主な城主      山田氏
 廃城年        天正18年(1590)
 遺構          郭、土塁、堀
 指定文化財    県指定史跡
 所在地        埼玉県比企郡小川町大字腰越字木落
 
 
比企城館群の2城目は、小川町の腰越城を訪ねました。
 
 この城は治承4(1180)に山田伊勢守清義が青木氏に従い宇治川の戦いに破れ、籠居するために築いたとされているそうです。
 この山田氏の素姓がどうにもハッキリしないのですが、治承4年に宇治川で敗れたのは以仁王の挙兵を仕掛けた源頼政です。
 青木氏に従ったとありますから、地の豪族山田氏が青山城の青木氏に与力して頼政の戦いに参陣したという事なのでしょうね。
 
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「総合福祉センターパトリア小川」に入って行き、駐車場の一番奥に停めると腰越城の至近です
 
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看板がたくさん有って親切ですが、この後国道を横断するので気を付けて
 
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入り口も判りやすい この辺りは根小屋だった様ですね
 
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これだけ看板があれば、訪城を歓迎してもらってる気分になって嬉しい(^-^;
 
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すぐに鏡柱門が現れます(もちろん遺構ではない)が、だいぶ壊れてる…
 
 
 では、なぜ挙兵に応じたのか
頼政の所領は武蔵北部から下総にかけて広く有り、下河辺氏が代官で管理していたと言われていますが、武蔵七党のうちの西党も頼政との関係が深かった様で、その丹党の末裔に上田氏が居り、戦国時代には山田氏は上田氏(松山城主)の重臣になっているので、なんとなく話が繋がって行きます。(少ない知識の範疇でですが
 
 この様に、歴史資料に乏しい腰越城と山田氏ながら、その絶妙な立地に堅牢な構造を持ち、その遺構が良く残る事で比企城館群の中でも優れた城址の上位にランクされています。
 
 
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広くはないが歩きやすい登城路です 傾斜も緩やか
 
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残距離表示も親切ですね
 
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山頂が見えてきました
 
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虎口だ(^^♪…
 
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…と思ったら、まだ上がある この平場は馬出し?
 
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空堀があります いきなりこの上の山が本郭みたいです
 
 
 この城が落城したのは天正18年(1590)の秀吉による北条征伐での事ですが、治承4年の築城から落城前までの記録は一切見つける事はできませんでした。
しかし、そこを謎のままにはしたくないので、周辺の氏族の動きから腰越城の変遷を想像して見る事にします。
 
 源頼政の元に参じて敗れた山田伊勢守清義らは、平家の追討を恐れて築城したとされますが、この時期の武蔵国は平氏の秩父党が支配しており、中でも所領を接する畠山重能らの追討を恐れた訳ですね。
 
 しかし、穏健派の河越重頼が調停したのか、大きな争乱には至らなかった様ですね。
やがて伊豆で源頼朝が旗上げすると、その傘下に加わって鎌倉御家人へとなって行ったのでしょう。
 
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此処に縄張り図がありました グルリと南に回り込むんですね 竪堀痕がよく判ります
 
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さっそく実物の竪堀
 
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この上が二の郭か?
 
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いや、まだまだ帯曲輪が続きます
 
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急な階段を登らされます 当時はどうなってたんだろ?
 
 
 鎌倉末期には新田義貞の鎌倉への進軍路にあたり、次第に味方を加えながら大軍になった義貞軍が初めて幕府軍とぶつかったのは、更に南の小手指ヶ原(所沢市)ですから、義貞軍に加わっていたと見るのが妥当でしょう。
 ただ室町幕府初期に名前が出て来ないため、さしたる戦功は無かったのではないでしょうか。
 
 鎌倉府が設立されると、武蔵では秩父氏系の一族が掃討され(平一揆)、代わりに鎌倉公方の家宰だった上杉憲顕が守護になります。
ここでこれまで秩父氏の下風に居た上田氏、青木氏、山田氏などの在地豪族が初めて陽の目を見るのですね。
 
 上杉氏でも比企郡周辺は扇ガ谷家の領地になり、その家臣団に組み込まれて行ったのだと思います。
 
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複雑な虎口になって来たから、本郭は近いぞ
 
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あれ、やっと二の郭か
 
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この虎口を入ると
 
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本郭です 意外と狭いな
 
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小川町の市街が一望です
 
 
 戦国時代に入り、扇谷上杉氏の重臣となって松山城主となっていた上田朝直は北条の攻勢に窮して北条氏へ寝返ります。
 これに山田氏も追従したかどうかは不明ですが、北条氏はこの上田朝直を信頼し、松山城主を認めただけでなく、近隣の国人達も含めて“松山衆”として組織化し、その頭領も任せました。
 
 天正18年に秀吉が進攻して来た時、上田朝直は小田原城へ籠り、松山城を守備したのはその重臣の山田伊賀守直定だったとなっていますから、その頃にはもう主従の関係だった様ですね。
 
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次には西の郭へ向かいます おっと、ここにも竪堀が…
 
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比企型虎口を降りて行くと
 
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西の郭は結構な広さ 居住区はこっちかも
 
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堀切も深いですね
 
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西の郭をさらに進んで、先端まで行きます
 
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すると、や、山が無くなってる(^-^; 
後で判りましたが、石灰岩の採取で山が削られて断崖になっているのです
 
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そういったコーションが無いので、足を滑らしたらとても危険です 皆さん、ここから先へは行かないでね!
 
 
 腰越城は戦いの記録はありませんが、籠城に備えた詰め城の整備がなされていて、北条時代まで改修がなされた“戦国の城”です。
よく整備されててアプローチは簡単ですが、足元の装備はくれぐれも厳重にしてお出かけください。