千葉の城  関宿城   登城日:2018.2.18
 
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 城郭構造   平城
 天守構造    なし (模擬櫓、層塔型3重3階=実在はせず)
 築城主      簗田満助か
 築城年      室町時代
 主な改修者  松平康元
 主な城主     簗田氏、後北条氏、松平氏、小笠原氏、牧野氏、久世氏など
 廃城年      明治4年(1871年)
 遺構        移築城門・御殿
 指定文化財  なし
 所在地      千葉県野田市関宿三軒家
 
 
 茨城の城を巡った道すがら、未登城だった千葉県の関宿(せきやど)城に寄って来ました。
 
 
 利根川と江戸川が分岐する地点にある関宿城は戦国時代には利根川水系の水運を司る上での最重要拠点と位置付けられており、特に関東制覇を目指す北条氏康、氏政が『一国に値する城』と、奪取に執念を燃やした城でした。
 
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江戸期の関宿城縄張り 輪中の様に堤防を外郭に城と城下が形成されていました。青の線が現在の堤防ですから、本丸、二ノ丸の大半が埋まっています
 
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北西方面を臨む 右へ流れる利根川と左へ流れる江戸川の分岐の様子が判ります 河川改修前は複雑に入り組んでいた様です
 
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北方面 利根川の対岸は猿島郡で、かつて平将門の本拠地でした
 
 
 室町時代、この地は足利基氏を祖とする鎌倉公方の領地であり、享徳の乱(1455)で公方の成氏が古河に移座して、管領:上杉氏と対峙する様になると成氏は関宿に重臣筆頭の簗田満助を配して領地の守りを固めました。
その際に満助が築城したのが関宿城の始まりと言われています。
 
 簗田氏とは元々桓武平氏の一族で、前九年の役に源義家に従って戦功のあった平良衡が下野国簗田御厨(現:栃木県足利市)を拝領し、領地の近江国久田郡から移住して簗田氏を名乗りました。
 
 下野下向後は守護の源義国(足利氏の祖)の臣となったそうですから、平安時代からの足利氏家臣だった様ですね。
 
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スーパー堤防の下にわずかに残った本丸跡 スーパー堤防の定義は、高さの30倍以上の底面の幅を持つ高規格の堤防です
 
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此処に関宿城跡を示す冒頭の城址碑が建っています
 
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本丸跡地は小公園の様になっていますが…
 
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ほとんど野生化した大根が生えているので、最近まで畑だった様ですね
 
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横矢のある土塁の様子がかつての関宿城を彷彿とさせます
 
 
 室町幕府が開幕すると、領地は簗田御厨から下総国下河辺荘へと移り、隣接する鎌倉公方の領地の管理も任された事から、公方直臣の中でも次第に重きを成して行った様です。
 
 公方が古河に移座した後は公方とも縁戚を結び、古河公方嫡子:足利藤氏は簗田高助の娘が生母で外戚となり、古河公方与党の結城、小山、宇都宮、千葉、小田、佐竹といった国主級の家臣よりも強い発言力を持っていた様ですね。
 
 戦国時代中期、北条氏の勢力が伸長して来ての河越夜戦(1545)に敗れた古河公方:足利晴氏は、和睦交渉で隠居を余儀なくされ、北条氏康の血を引く義氏(第5代)が公方に就任します。
 しかし公方重臣の中では依然として反北条の簗田氏が権力を維持した様で、北条氏の中では簗田氏の処遇・追い落としが焦点になって行きます。
 
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堤防の上に登って北を見ると、城の櫓が見えます
 
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これは千葉県立の関宿城歴史博物館で、かつての城を模した建物で造られていますが、場所は当時の川の上です
 
 
 北条氏康は公方の義氏を関宿城に移座させ、代わりに簗田氏には古河城を与えるという、一見破格の条件で簗田氏に揺さぶりを掛け、念願の関宿城奪取に成功しますが、簗田晴助はこれを呼び水に上杉謙信の関東進攻へと繋げて古河城に上杉勢を呼び入れてしまいます。
 
 そればかりか、北条領を蹂躙して関東の国人の大半を従えた謙信の命で、古河公方:義氏を廃して、簗田氏の血を引く藤氏を就任させ、長年の大願を果たしたのです。
 
 怒った北条氏康は謙信が去った冬季を狙って古河城に総攻撃を掛けますが、関宿城が手薄になったのを見た簗田晴助は、古河城を放棄して落ち延びる…と見せ掛けて、まんまと関宿城を奪回しました。

 

  以後は上杉と佐竹の支援を受けた簗田晴助、持助親子が奮戦し、北条氏との間で激しい争奪戦が繰り広げられましたが、天正4年(1574)の3度目の攻撃には上杉氏の来援も望めない状況であり、やむなく開城降伏しました。
 
 この時が北条氏が初めて古河公方を手中にした時であり、念願の関宿城奪取はこの後の北関東制覇へ向けて大きなステップを印す事になります。
しかし、奪取した攻将は北条氏政、氏照兄弟であり、関宿城に最も執着した氏康は3年前に死去した後でした。
 
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こちらは建物が人目を惹くからか、賑わっていました。
 
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少しでも城の雰囲気を味わって貰うため、努力しています。 門にある丸に並び鷹羽紋は最後の藩主久世氏の家紋ですね
 
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模擬天守から南の城址方面を見ます 集落は城下の名残りですが、二ノ丸、三ノ丸や堀などは完全に耕地化されています
 

 

 戦国の名将:北条氏康でさえその生涯に落とせなかった関宿城。
関東制覇の野望はここで大きく遅れを生じ、結果的に織田・豊臣の進攻タイミングまでに対抗するだけの基盤を作り切れなかった事が、憐れな形での滅亡へと繋がってしまいます。
 その陰には簗田晴助の優れた戦略眼と旺盛な闘争心があった事は間違いありません。

 

 似たような武将では、武田信玄を西上野に釘付けにし、西上作戦を遅らせて寿命を使い果たさせた箕輪城の長野業正が居ます。
全国区ではありませんが、関東の名将として知ってほしい武将達ですね。
 
 その後の簗田氏は北条傘下に組み込まれ、天正18年を迎えます。
北条氏とともに没落した簗田氏でしたが、長年奉公した古河公方の名跡を残す“喜連川氏”の家臣には加わらず、新領主:徳川家康の旗本として300石を給され、明治まで続いた様です。

 

 関宿城には家康の異父弟の松平(久松)康元が入り関宿藩を立藩すると、江戸近郊の要の城という事で老中クラスの譜代が目まぐるしく入れ替わり、最後は久世氏が6万石で明治を迎えました。
 
 
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10kmあまり北の逆井城址に建つ薬医門 関宿城廃城時に競売で個人宅に移築されていたものを買い戻した、数少ない遺構のひとつです

 

 

 江戸期の関宿城には、天守の代用として江戸城富士見櫓を模した御三階櫓があったそうですが、関宿城自体が明治以降の河川改修工事でスーパー堤防の地中に埋もれてしまい、城下町も圃場整備で農地となった事から、当時の姿を残すものは有りません。

 

 僅かに堤防の裾に本丸跡地を示す城址碑が小公園となって在る事と、近年に堤防上に建設された歴史博物館が江戸城富士見櫓を模した外観で造られていて、関宿城の存在を今に伝えています。