埼玉の城  小倉城   登城日2018.2.10

 
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 城郭構造      連郭式山城
 築城主     上田氏または遠山光影
 築城年     不明
 廃城年     不明(1590?
 遺構       土塁、石塁、曲輪、堀切、虎口
 指定文化財  国の史跡
 所在地     埼玉県比企郡ときがわ町(旧玉川村)田黒字城山
 
 
 埼玉の城も落穂拾いをしています。
埼玉でマニアの評価の高い城は軒並み日本百名城もしくは続日本百名城に指定されましたが、まだそれらの城と遜色のない城が幾つかあります。
 
 今回訪れた小倉城は、松山城、杉山城、菅谷館とともに国の史跡比企城館跡群に指定されています。
 
 
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小倉城遠景 関東平野を臨む秩父山系東端の尾根上に連郭式に縄張りされた山城です
 
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進入路には国の史跡らしく、分かりやすい看板が出ています
 
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根小屋の居館跡と思われる場所に建つ大福寺が登城の基地になります
 
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登城口にはパンフが用意されていました
 
 
 小倉城はその出自については不明な点が多く、残念ながら他の城館に比べて知名度は高くありません。
 長享4(1488)にすぐ近くで扇谷上杉氏と山内上杉氏が争った“須賀谷原合戦”では存在が確認できないので、それ以降の築城という見方が主流になっていますが、確証はありません。
 
 当時の比企郡は扇谷上杉氏の勢力圏で、10kmほど東の武蔵松山城を居城とする重臣の上田氏が治めていた事から、上田氏を城主と仮定している様です。

 

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詰め城に分類するには山上の郭が大きく、多くの兵で長期間の籠城が出来る戦国後期の特徴を備えています
 
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此処から登って行きます
 
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比高差は60mほどなので、すぐに山上の郭塁が見えてきます 途中の山腹には特に防塁めいた遺構はありません
 
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主郭の小口下には横堀と帯曲輪が巡っています
 
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所々に見られる石積みの遺構
 
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主郭に入る前に横矢となる3の郭をまず覗いて見ます
 
 
 北条の治世になるとこの地域の豪族は“松山衆”として組織化され、頭領は同じく服属した上田氏が引き続き担って行きます。
が、そこに遠山光影(江戸衆)の名がなぜ出てくるのか?…ですが、松山城は戦時の山城であり、山上に居住の機能はありません。
 
 当然、山裾には根小屋があった訳ですが、その館跡が菩提寺:大福寺になって残り、そこには「遠山衛門大夫藤原光景室葦園位牌」が伝えられている事から、遠山光影を城主とするもあるのです。
 

 

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主郭と3の郭を隔てる堀切 岩盤を掘って仕切っています
 
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堀切の上部は鉢巻石垣になっています 甲信ではよく見る初期の石垣遺構ですが、関東の山城では珍しい遺構です
 
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小倉城のある山自体が岩の多い山で、この様に板状に剥離する質の岩みたいですね つまり現地調達による石垣です
 
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3の郭もまとまった平場を持っています
 
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その先端には小さな物見曲輪を備えて、その先は麓まで一気に落ちています
 
 
 遠山光景は、東美濃に広く栄えた遠山氏の一族で、戦国初期に北条早雲に従って相模にやって来たそうです。
 その三代の後の遠山康景は江戸城の城代を務めていましたが、古河公方・里見氏連合軍との国府台合戦(1564)に戦死してしまいます。
 
 江戸城代は弟の遠山親が継いだのですが、直親は小倉城の城将だったので、自然と小倉城は子の光景に譲ったという事の様ですね。
 
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主郭に上がってきました 日陰には雪が残っていました
 
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周囲を土塁で巻いた主郭は広大で、二段構造になっています
 
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穏やかな晴天のこの日は、家族連れがピクニックに訪れていました
 
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主郭は北側にも虎口を備えていて
 
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その下段の帯曲輪からは枡形の虎口を経て尾根沿いに支城?の青山城へと繋がる尾根道があります
 
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帯曲輪からは急斜面が麓まで落ちています
 
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東を眺望すると越生の丘陵の向こうに関東平野が一望に俯瞰できます
 
 
 この様に、築城主もその時期もハッキリせず、さしたる歴史の表舞台にも登場しない小倉城ですが、その縄張りはしっかり作られており、遺構の残存状態も良好で、西関東の戦国の城としては珍しく、殆ど北条氏の手が入らないオリジナルな城の姿を見させてくれます。