茨城の城 守谷城 登城日:2018.2.18

城郭構造 連郭式平山城
天守構造 なし
築城主 相馬氏
築城年 寿永2年(1183)
主な改修者 水野勝長
主な城主 相馬氏、菅沼氏
廃城年 慶応4年(1868)
遺構 郭、空堀、土塁
指定文化財 なし
所在地 茨城県守谷市本町
牛久から20kmほど北西へ移動し、守谷市に入りました。
関西系の者にとっては聴き慣れない市名ですが、旧国郡名でも、下総国相馬郡守谷郷…となっていますから、律令時代からもう守谷だった様で、伝承によると日本武尊が東征の際に通り掛かり、鬱蒼と繫る森を見て『森なる哉…』と発したのが語源と言われています。
その守谷郷を領していたのは相馬氏で、平安末期に下総の豪族:千葉常胤の二男:師常が相馬御厨の地頭職を賜わり、相馬氏を称しました。

守屋城址遠望 城の周囲に在った守屋沼は公園になっています



そして平台(主郭)への虎口
相馬といえば“野馬追い”で知られる福島県東北部の相馬が有名ですが、師常の子の義胤が鎌倉御家人として軍功を挙げ、陸奥国行方郡のうちで(現在の南相馬市、飯館村あたり)加増されたのがその始まりです。
義胤の末裔の重胤が土着して後、陸奥国相馬郡となり、相馬郡は下総と陸奥に二ヶ所あって、ともに同族が支配していたのです。

下総の相馬郡守谷城に戻ります。
築城年代は定かではないが相馬氏により寿永年間(1182-83)に築かれたものと云われます。
守屋城を拠点に千葉氏一族として鎌倉・室町期を行動を共にした相馬氏でしたが、戦国時代になると古河公方の家臣の梁田氏の与力に編成され、簗田氏と共に上杉、北条勢と戦いました。
戦国の世が進み、北条氏の攻勢が強まると梁田氏は北条氏に降り、このとき守谷城は北条氏に接収されました。
北条氏は守谷城を改修して古河公方:足利義氏の御座所にするつもりだった様ですが、義氏は古河城に強い愛着があって居座ったため、実現しなかった様です。

平台(主郭)はそれなりの広さがあります




土橋を渡って振り返り、平台を見ます 高さはほぼ同じで、土塁痕も無いので、北条氏により改造された部分かも知れません
天正18年(1590)北条氏は豊臣秀吉によって滅ぼされ、相馬氏の所領も没収されて一旦は没落しますが、相馬宗家は名家である事から徳川家康の元で旗本となり、家名存続が許されています。
ちなみに陸奥の相馬氏には相馬中村藩6万石が与えられ、徳川幕府の大名として明治維新まで続きました。
徳川家康が関東に入部すると、守谷城にはその家臣の土岐定政が1万石を得て入ります。
定政は土岐一族でも明智氏の系統で、守谷城の拡充と城下町の整備を行ないましたが、大坂の陣が終わった元和3年(1617)には摂津国高槻城に転封となります。

妙見曲輪の平場 此処が公方館の予定地だったのかな?

その先は耕作地改造の跡が入り組んでいて、よく判らない地形になっています

守谷は一時天領となりましたが、寛永5年(1642)には後に幕府大老となる17歳の堀田正俊が1万3千石で入り、寛文元年(1668)には、酒井忠挙が2万石で城主となります。
しかし延宝4年(1676)、父:忠清の隠居で前橋藩を継ぐと城は廃城となりました。
城主の居なくなった守谷でしたが、この地は日光街道と水戸街道を結ぶ脇往還にあたり、城下町は宿場町に機能を変えて今日まで繁栄して来たそうです。

御馬家台は城の大手を守る“馬出し”機能の郭と思われます 小さいながらも外側に土塁が巻いた城らしい防備の郭です

