茨城の城  牛久城  登城日:2018.2.18
 
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 城郭構造    平山
 天守構造    なし
 築城主     岡見
 築城年     天文年間(1550年頃)
 主城主    岡見治広、由良国繁
 廃年     元和9年(1623年)
 遺構       空堀、土塁、土橋、虎口、郭
 指定文化財  なし
 所在地     茨城県牛久市城中
 
 
 
小坂城から西へ向かうと、右手に大きな大仏様の立像が見えて来ます。
 
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牛久大仏は1992年に造られた浄土真宗寺院の阿弥陀如来像です 全高120mでブロンズ像としては世界最大です ど~だ!
 
 
 牛久城は、城主の岡見氏によって天文年間(1550年頃)に築城されました
このは岡見城の支城でしたが、佐竹氏の攻勢が強くなり、その傘下にあった下妻の多賀谷氏が攻め込んでくると、岡見氏も北方が主戦場となり、牛久城に籠る時が多くなったので、次第に本拠になって行った様です。
 
 宗家でもある小田氏が手這坂の戦で敗北し滅亡すると、岡見氏の命運も風前の灯火になってしまいますが、岡見治広はここで一世一代の決断をし、北条氏に近付いてその仲立ちで南の土岐氏との和睦・連合を実現し、背後の脅威を除くとともに、北条氏という大勢力の後援を手に入れました。
 
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得月院は城域の入口の城中町にある曹洞宗の寺院で、由良氏による開基です。 この門前に観光駐車場(無料)があります
 
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牛久城の城域は広く、800m歩いてやっと主郭部に辿り着きました(前方の森) ここで初めて牛久城の案内看板がありました
 
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牛久城の看板は泣いても笑ってもこれ1枚っきりです
 
 
 しかしこの事は良い事ばかりではなく、佐竹氏との最前線となった牛久城は北条氏からも重視されて、北条軍がズカズカと入り込んで来て、例によって牛久城は北条流の巨大城郭に大改造されてしまいます。
 
 城が大きくなると守る人数も必要になりますが、北条氏はこの牛久の城には自前の家臣を置かず、後方の臣従した下総の兵が与力に入ります。
主には千葉氏の系列の豪族が交代でこの役目を果たした事から牛久番と呼ばれました。
 
 いずれにしても、大きな援軍を得た対価に自分の城でありながら自分だけで裁量できない、自主性を失ったという事ですね。
 
 14年(1586)、多賀谷氏が大攻勢を掛けて来て、岡見の支城の谷田部城、足高城が落とされる事態になりましたが、牛久城は牛久番の布豊島氏や、非番ながら駆け付けた小金城の高城氏などが奮戦して守り切っていますから、岡見治広の賭けは成功だった訳です。
 
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森に入って行くと、さっそく深い堀と二ノ丸の土塁が待ち構えています
 
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堀幅は約30m 堀底からは10m近い土塁が立ちはだかります
 
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武蔵滝山城を彷彿とさせるこの造りは、やはり北条の城ですね
 
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西へ少し回り込むと土橋が有って、主郭内へと入って行きます
 
 
 しかし北条傘下であったという事は、4年後の豊臣吉の北条征伐での滅亡を意味し、牛久城も開城・降服する事になります。
 
 秀吉は牛久には元太田金山城主だった由良国繁を入れて5千石を与え城主にしますが、江戸時代になり牛久城は元和令により廃城とされました。
 
 由良氏は新田氏の血を受け継ぐ事からその後も高家旗本で優遇され、明治維新後に新田氏を名乗るのはこの由良氏です。
 牛久には将軍:秀忠家臣の山口氏が1万5千石で入り牛久藩を立藩し、牛久城址の西側の台地に陣屋を構えて明治維新まで続きました。
 
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虎口を入ると広い帯曲輪になっています その説明看板かなと思ったら…
 
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帯曲輪は武者溜りの機能なので、その広さは想定する兵の数に比例します
 
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ずっと奥まで続く帯曲輪
 
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二ノ郭の虎口も見下ろし構造で厳重です
 
 

 
 
 
 前述しましたが、現在に残る牛久城址は北条氏が手を加えた巨大城郭の址です。 
大きな城って、見て廻るだけでも大変なのですが、それに加えて牛久市はこの牛久城を積極的に見せる意思に欠けてる様子で、これがまた敷居を高くしています。
 
 
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ニノ郭内はやっぱり広い
 
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周囲を土塁が巻いていますから、本丸並の仕様ですね 『牛久番』は此処を使っていたのかも知れません
 
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土塁下を覗き込むと… ぶっとい孟宗竹が密生してて何も見えません^_^;
 
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本丸との間の堀切は比較的よく見えました
 
 クルマは大手門跡に近い外郭にある徳月院前の“観光駐車場”に停めましたが、観光と銘打っていながら、観光マップすら掲示してありません。
 仕方がないので、家で予習の際にチェックした地図を脳内に復元して、方角だけを頼りに歩きます。
 
 歩くと言ってもそこはそれ、北条の城ですから、目的地の主郭エリアまでは800mほども有ります。
 
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外に出て、堀切を横から確認します 二ノ丸(左側)の方が高い…かな?
 
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本丸に入って行く前に、搦め手の虎口がありました 私有地なのか、間伐がされて見通しが利きます
 
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此処からは牛久沼が見えますね この日も強風が吹いていたので白波が立っています
 
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本丸への土橋です ケチな事言わずにタケノコ採ってもらわないと、こうなりますよ^_^;
 
 歩いて気付いたのですが、道はだんだん狭くなって行くのに、付近は住宅がかなり沢山建っていて、クルマもしょうっちゅう走って行きます。
 慣れない人だと離合する場所も判らないから、観光駐車場に停めさせて正解なんですが、それならそれで主郭に近い牛久沼の畔にでも駐車場を作ってくれたら楽なのに…。
 
 10分ほど歩きましたが牛久城の看板が一切ありません。 
あれ?見落としたかな?…と不安になり始めた頃、道は下り坂になり牛久沼に出て行きます。
 さすがに通行人に教えを請いましたが、『あそこのT字路で左に曲がればすぐ』と教えてくれました。ちなみにそこに看板は『ない!』そうです^_^;
 
 
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本丸内です 二ノ丸よりちょっと狭いかな あれ?土塁が巻いてない
 
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竹が密生してて、敵も登ってこれないからイイのか^_^;
 
 
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本丸は牛久沼が近いです
 
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 三ノ丸(畑地)から二ノ丸に入って行く木戸口にやっと看板が一枚ありましたが、広い城址にこれ1枚だけです。
 主郭のエリアも積極的に整備する気は無い様だし、牛久の人達にとって岡見氏も牛久城も、さほど誇れる存在ではない何かが有るのでしょうね。
 
 ただ、マニアの間では有名なだけに城としてのスペックは凄いので、この整備状態では短時間で全容を見極めるのはとても困難です。
 しっかり予習してジックリ時間を掛けて臨めば、とても面白い城だとは感じました。