また霞ヶ浦の南岸を西へと戻ります。

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 次の目的地は城址ではないんですが、以前に土浦城を訪ねた時に見掛けて、気になっていた予科練平和記念館を訪ねてみます。

♪若い血潮の 予科練のぉ~ 七つボタンは桜に錨
  今日も飛ぶ飛ぉぶ~ 霞ヶ浦にゃ~ でっかい希望の雲が湧く~

 おなじみ『若鷲の歌』ですね。
これを“特攻隊の歌”だと認識している方が居ましたら、それは違います。
予科練とは海軍飛行予科練習生の略称です。

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霞ケ浦の南岸を走るR125  自衛隊の駐屯地に隣接して予科練平和記念館があります

 なんだ、やっぱり軍隊じゃん! …と思うかも知れませんが、今も昔も、新しい先進技術というものは軍需が先行します。
 軍事で実用化された技術はやがて民生化され、人々の暮らしに“効率化”という付加価値をもたらすものです。

 パイロットも同様に先ずは航空兵として教育され、年齢を重ねて軍を退役した後は民間航空会社のパイロットとしてまた活躍する訳ですね。

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館内は撮影禁止なので、パンフで展示の様子をお伝えします
入隊~厳しい訓練~仲間や地元の人達との交流~部隊配属~戦死(特攻)のストーリー

 飛行機が初めて戦争に登場したのは第一次対戦のヨーロッパ戦線で、用途は爆弾を上空から落とす爆撃機でしたが、各国の軍用機が出揃うと敵機を撃墜する目的の戦闘機も開発・投入されて行きます。
 終戦後、飛行機の効能を認識した各国は、飛行機を主体とする戦術へと転換を図り、軍用機の開発とパイロットの養成に力を入れて行きます。
 日本も昭和初年から開発製造を本格化させ、驚く事に僅か15年ほどで世界有数の軍用機保有国となりました。

 一方でパイロットの養成は、軍隊内の下士官兵から選抜された隊員が訓練を重ねてパイロットになっていましたが、操縦技能だけでなく様々な知識が
必要なため、習得するには数年を要したので、思うようには増えて行きません。
 そこで考案された養成方法が予科練習生の制度です。
最若で14歳の少年期から基礎体力や学力教養を3年間鍛え、適性に適った者はその後1年間の操縦訓練を経て実戦部隊に配属されるというもので、昭和5年に募集開始した第1期生には6千名近い応募があり、合格者は79名という狭き門でした。

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パンフ写真抜粋 土浦は海軍航空隊の大きな基地で、予科練は水上部隊の中に置かれました
カリキュラムは普通の学校+パイロット技術習得を全寮制でやってる感じ 悲壮な雰囲気ではありませんでした


 当時の少年たちにとって、軍のパイロットがいかに憧れの存在だったかが判りますね。
 しかもその動機は、国の為に華々しく戦って死ぬ事であり、戦争するのが当たり前の事で、それに勝つ場面の主役になる事に憧れた… 昭和初期とはまさにサムライの精神がまだ生きていた時代だったのです。

 開設当初は横須賀航空隊に在った予科練でしたが、航空戦力拡大のニーズが見えて来ると練習生の募集はどんどん増えて行き、手狭な横須賀では十分な教育が困難なので、昭和14年に土浦航空隊内に移転したのだそうです。
 さらに太平洋戦争が勃発すると、土浦航空隊の予科練の同様の施設が全国に19カ所も設立され、募集隊員は3万人/期まで増やされ、養成期間も大幅に短縮されたそうです。

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特攻潜水艇“回天”
戦局が悪化すると燃料不足で満足な飛行訓練はできませんでした 飛行機を操縦できない練習生は回天の乗務員へと転用されて行きます…


 しかし、資源と技術に劣る日本は日進月歩の飛行機の開発について行けず、パイロットを危険にさらす魔改造(防弾壁取り外しによる軽量化)に奔って人を消耗してしまい、それはパイロットの粗製乱造という悪循環になって“特攻攻撃”の悲劇を生み、敗戦へと突き進んでしまいます。

 戦後、アメリカによる占領統治で日本の航空機開発・製造は事実上禁止されてしまいます。
 開戦時の零戦を生んだ技術者達はやむなく違う分野に活躍の場を求めざるを得ませんでした。

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日本が生んだ名機『零戦』 世界的なレベルから見て唯一のピークです、今のところ…

 10年後、民間機に限って開発が認められますが、時代はもうジェット機が主流になって久しく、蓄積の無い日本では産業として成り立たない格差がありました。
 結局、民間にしろ軍用にしろ、飛行機は外国から買う事しか出来なくなった日本ですが、経済が再生して行く中で機械工業は先進国を凌駕するレベル
になり、部品や素材に限っては航空機産業の一翼を担う様になって行きます。
 一方で完成機は、戦前の飛行機メーカーが中心になってのライセンス生産が始まり、技術を蓄積しながらもうあと一歩で純国産機が出来る所まで来ている昨今です。

 そんな中、先日に残念なニュースが報じられました。
三菱が中心になって開発を進めていたF15に替わる次期主力戦闘機のF3(心神)の自主開発を断念するのだそうです。

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今がピークの日本の最新技術で主力戦闘機を純国産化…零戦の再来の夢は消えました

 理由は何なのかと、いろいろ調べてみましたが、明言されてないので推測も加えて考えると、やはり憲法第9条が邪魔してるみたいですね。
 敵より先に気付いてミサイルを発射し、敵が気付く前には仕留めてる様な高性能な兵器は、明らかに不戦や専守防衛の概念には嵌りません。
 ですから、要求性能を示す“仕様書”が作れないんですね。
それでは設計者も図面が引けないので、既製品を購入したり、基本部分を他国に委ねる共同開発とし、ステルスなどは『たまたま付いてた機能』で逃げるしかない様です。
中露の利益代表のウルサイ議員が沢山いますしね(^-^;