茨城の城  木原城   登城日:2018.2.11
 
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 別名       神越城
 城郭構造    平山城
 築城主      近藤氏
 築城年        応永元年(1394)
 主な改修者     土岐治英、松田憲秀?
 主な城主      近藤利貞、近藤氏元、近藤義勝
 廃城年        慶長8年(1603)
 遺構         曲輪、土塁、堀、石碑
 文化財             なし
 所在地            茨城県稲敷郡美浦村大字木原(木原城址城山公園)
   
 
 また茨城の城めぐりに戻ります。
 
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早朝のつくば市街を走ります(信号待ちに撮影) この街はゆったりレイアウトで、アメリカの街みたい(^^)
 
 つくば市のホテルを早朝に出発して土浦へ、さらに霞ヶ浦の南岸を東進してお馬さんで有名な美浦村に入り、木原城址に着きました。
 
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木原城址公園の入り口は二ノ曲輪の入り口です
 
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二ノ曲輪の入り口を内側から見る 平坦な地続きで土塁で区切られています
 
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駐車場から見た二ノ曲輪の南半分 公園ながら畑になっていますが、半分でこの広さ…
 
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詰め曲輪(本丸)との間の堀はシッカリ残っていますが、これは…何か匂う(^-^;
 
 木原城は土岐氏の家臣である近藤氏の居城と言われています。
土岐氏と言えば源氏の名族で美濃の守護職で斎藤道三に国盗りされた土岐氏を思い浮かべますが、その美濃土岐氏の一族が南北朝期に関東管領上杉氏に請われて移住して来て、江戸崎を拠点に勢力を持っていたのが江戸崎土岐氏です。
 この江戸崎土岐氏の支族には上総国夷隅の万喜城を拠点にした万喜土岐氏も居、土岐氏の桔梗紋は関東でも翻っていたのですね。
 
 余談ですが、美濃土岐氏の最後の当主は頼芸ですが、頼芸の弟の治頼は江戸崎土岐氏に養子に入り当主を継いでいました。
 道三に美濃を追われ、策の尽きた頼芸は治頼に手紙を出し、江戸崎の土岐氏が土岐氏宗家を名乗れ』…と伝えています。
 
 
 話を木原城に戻します。
土岐氏の江戸崎城の支城で、家臣の近藤氏が守った木原城という立ち位置が定まりました。
 土岐氏の領地は木原城のある信太郡と江戸崎城のある河内郡のそれぞれ一部で、時代で変化しますが、それぞれ半分ずつとしたら約6万石の領地なります。
つまり土岐氏の総兵力は2000人以下で、その家臣が守る支城となると2~300人の守備兵が限度ですね。
 信太郡は小田氏との係争地ですから、戦時としても500人も入れたら江戸崎城が守れなくなります。
 
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縄張り図がありました 城址公園で遺るのは青く塗った堀の範囲ですが、ほんの一部ですね
 
 この数字を念頭に、城の縄張り図を見てみると、とんでもない巨大さ、ミスマッチに気付きます。
 現在城址公園になっているのは詰曲輪(本丸)と二ノ曲輪だけですが、南の旧館郭から北は霞ヶ浦の船着場まで、1km以上、東西も400mもの城域です。
 
 今回、本城の江戸崎城へは行ってませんが、縄張り図で見る限り、4倍は優に有りますね。
 誰が一体こんな巨城にしたのか? 
と言えば、そんな事するの北条氏しかないでしょう(^-^;
 
 
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詰曲輪の虎口 堀と土塁の規模感がもう北条の匂いプンプンです
 
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右側が詰曲輪で、御覧の様に二ノ曲輪の方が高くなっています これを挽回する為に土塁を高く盛り上げる手法は鉢形城で明確に観られます 基底部の幅が広いですね
 
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そして本丸の詰曲輪は… なんじゃこりゃ的な広さ
 
 
 戦国中期、管領:上杉憲政が越後へ離脱すると、長年上杉氏に従ってきた土岐氏は常陸に取り残されてしまいます。
 北条氏の勢力伸長が始まり、土岐氏も他の氏族と同様に形式上は北条傘下に加わる事で難を逃れた様です。
 
   しかし、やがて上杉憲政は謙信を伴って戻ってきます。
その圧倒的な強さに北条氏は押されまくり、北条氏に臣従していた関東の豪族たちは雪崩を打って謙信の元に参陣しますが、土岐氏はこの時駆け付けていません。

 

 この時の当主:土岐治秀に北条氏、上杉氏がどう映っていたかですが、謙信の神憑り的な強さには驚きながらも、地の利の悪さは致命的だと感じてた事でしょう。
 冬季に厩橋に駐留していた北条(きたじょう)高広の弱さも、謙信を欠いた時の上杉氏の体質に懐疑的になる要素だったかも知れません。
 
 春から秋にかけて三国峠を越えてやってくる謙信に、常陸の土岐氏が恩恵に授かるのは最後の最後ですからね。
 年中境を接する北条氏を選んだのは治秀の英断と言えるかも知れませんが、謙信に敵対する事は謙信と同盟する佐竹氏の侵攻を呼び込む事にもなってしまいます。
 
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鉄骨製の物見櫓があるので、さっそく煙人間に(^-^;
 
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北西方向に筑波山が見えます 霞ケ浦は当時は市街地辺りまであった様ですね
 
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そして眼下の本丸の広さ 江戸城か?
 
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入って来た二ノ曲輪方面の虎口 高低差を挽回する土塁の様子が良く判るのですが、逆光でダメですね
 

 

 永禄10年(1567)佐竹氏は土岐氏制圧に南下を開始しますが、何故か道中で同じ上杉方の小田氏に攻めかかります。
行きがけの駄賃というか、これを機に常陸すべてを掌中にと考えたのでしょうね。
 このため、小田氏は昨日まで争っていた土岐氏と同盟を結び、対佐竹で協力したため小田氏攻略で手間取ってしまいます。
 
 この間、北条氏の信頼を得た土岐氏には北条氏の重臣:松田憲秀が乗り込んでいて、強力な佐竹対策が講じられて行きます。
 恐らくこの時、霞ヶ浦に面した木原城が大幅に強化拡張され、大軍が駐留でき、軍船を使った攻勢ができる城に生まれ変わったのでしょうね。
 
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詰曲輪から船着き場方面への虎口(搦め手口)ですね 土塁が切れて渡り櫓門になっていた筈です
 
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右手の土塁上に稲荷神社があるので、登って見ます
 
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神社の裏手は深い薬研堀になっていて、その向こうは二ノ曲輪の東端
 
 
 北条氏の東関東方面の軍団長:北条氏照には2万6千もの動員兵力があり、この数は佐竹氏の倍以上と思われます。
 
 これは氏照が採った戦術の特徴で、確保した最前線に巨城を築いて大軍を投入し、逆襲を許さず地歩を固めて行く…横綱相撲的なやり方ですね。
 
 宇都宮氏に対する小山祇園城や西方城の拡張整備がまさに是にあたります。
 
木原城の大きさの必然性は、これ以外に考えられません。
 
 佐竹氏にとっては、小田氏への寄り道が自力で常陸を制覇する機会を失う事になってしまった様ですね。
 
 
 北条氏の後援で安泰になったかに見えた土岐氏でしたが、北条氏が西の巨大勢力(織田・豊臣)への対応を誤ったため、天正18年(1590)に豊臣秀吉に攻められ滅亡します。
 
 秀吉が論功行賞で常陸全域を佐竹氏に与えたため、木原城の留守居は佐竹義重に降伏開城し、土岐氏の諸城は佐竹一族の蘆名盛重が預かりましたが、関ヶ原の戦いの後、慶長8年(1603)に佐竹氏が秋田に転出すると徳川家譜代の大名:内藤清成、青山忠成の所領になり、同時に木原城は廃城なりました。
 
 
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なだらかに見えた虎口も下から見上げると堅固です
 
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再度の詰曲輪 北条氏照は果たしてどれくらいの兵力を集結させるつもりだったのかな?
 
 
 江戸崎土岐氏の末裔は、家康に駿河で知行を与えて貰い、その後は徳川頼宜に付属されて紀州に移りましたが、吉宗が将軍になると付随して江戸に移り、幕臣旗本になったそうです。