先日に結城城を訪ねた際、慶長7年(1604)に結城氏は越前に移封し、結城城は廃城となり本丸御殿他の建物が武蔵鴻巣の勝願寺に移築された旨を書きました。
城の建物が寺に移築される事はよく有りますが、なぜ勝願寺だったのか、その辺の背景を含めて知りたくて、早速訪ねてみました。

川越から鴻巣へはJRの乗り継ぎで簡単に行けますが、クルマだともっと便利で、約20kmの道のりを40分ほどで行けてしまいます。

勝願寺は鎌倉時代の中期に第4代執権:北条経時の寄進により創建された浄土宗の寺院でしたが、室町~戦国の戦乱で荒廃し、宗旨も真言宗に変わっていたのを、戦国末期の天正年間に浄土宗の高僧:惣誉清厳が再興し、武蔵松山城主:上田氏の出身の円誉不残が住職となりました。

鴻巣は中山道の宿場町で、江戸を朝発つと夕刻に着く距離にあるので、旅人で賑わったそうです

勝願寺は街道の辻にありました

栴檀林の号が掲げられた惣門から入ります この寺唯一の江戸時代の建物です
不残は学徳に優れていて、文禄元年(1592)に新領主として寺を訪れた徳川家康は不残の説法に深く感銘を受け、その場で帰依を表明するとともに、随行していた家臣の伊奈忠政、忠家、牧野康成に檀家になって寺を盛り立てる様に指示したそうです。
それに加えて、さしたる規模も無かった勝願寺の伽藍を、徳川家肝煎りの寺院に相応しくするため、移築寄進したのが結城城の本丸建物で、伊奈忠次が奉行になり、二百十畳敷きの御殿をはじめ隅櫓・御台所・太鼓櫓・築地三筋塀・下馬札・鐘などが移築されたそうです。

これは山門(仁王門)ですね この日は檀家さんによる清掃奉仕の日だった様です
明治15年に焼失後、大正9年に再建されました

再建され際に秩父三峰神社から贈られた仁王像 焼失前の結城城から移築された仁王門には運慶作の仁王様が居たそうで、現存すれば国宝間違いないですね
でも、結城城には仁王門があって仁王様が守っていたのでしょうかね?^_^;

本堂は明治期の再建ですね 結城御殿はこの本堂から庫裏にかけて活用されたそうです。
ご覧のとおり、家康から三つ葉葵紋を許された寺で、徳川家臣が広く帰依していました
徳川幕府の浄土宗保護政策もあり、江戸期の勝願寺は栄えて、全国から集まる修行僧の僧坊だけでも16棟を数えたと言います。
また関東における浄土宗本山の機能も果たしており、末寺の数も40を数えました。
鴻巣は中山道の宿場町でもあり、参勤交代の大名がこの結城御殿に宿泊した記録もある様です。
中でも加賀藩の前田利長は惣門脇の下馬札に気付かず、騎乗のまま入って行ったため寺僧に咎められ、追い返されたので宿泊できなかった…といった逸話も残っています。

檀家代表:伊奈忠次の墓所 博徒の親分ではありません、れっきとした譜代大名です
関東の将軍家直轄領の改良に貢献した役人で、利根川や荒川の付け替えで荒れ野や氾濫原の湿地を耕地に変えた、功績は計り知れない人です

檀家大名:仙石秀久の墓 お馴染み信州小諸藩主の権兵衛さんは参勤の帰任途上の鴻巣で亡くなり、生前の縁により勝願寺にも分骨埋葬されたのだそうです

有名人:小松姫と真田信重夫妻の墓 小松姫は生前円誉不残上人に深く帰依していました
草津に湯治に向かう途中に鴻巣で亡くなったと伝えられていますが、余命を察して上人の元に来た…と考える方が自然な気がします
信重は小松姫の実子で、信之にとっては三男で、埴科藩(1万7千石)に分家していました
信重も鴻巣で亡くなった…と言われますが、小松姫の死後、松代の扱いの酷さ(長国寺に入れなかった)に憤っての事かも知れません
妻でなく、母と同じ基壇に建つ墓石が信重の特別な思いを表わしていますね
結城御殿は江戸期を通して健在でしたが、明治3年に夏の台風で倒壊してしまいます。
明治15年には火災が有り、本堂・庫裏・仁王門など残る建物も焼失してしまいます。
その後、本堂や仁王門などは再建されましたが、結城御殿が再建される事はなく、跡地にはグランドが整備されて競馬などのスポーツ競技が行われたそうです。

結城御殿の跡地では?と思われる鴻巣公園 勝願寺の南に隣接しています
家康をはじめ歴代将軍は鷹狩を頻繁に行ない、この川越から行田に掛けての荒川沿いで行う時は鴻巣で宿泊しました。
勝願寺の結城御殿が宿所になった記述もありますが、家康は関ヶ原前後の同時期に勝願寺の北300mの場所に“鴻巣御殿”という宿所を設けています。

鴻巣市役所に飾ってある鴻巣御殿復元模型 発掘調査に基づく復元で、信憑性は高いそうです
私は、この鴻巣御殿=結城御殿ではないかとの一抹の疑念を持っていましたが、鴻巣市役所内に復元されている模型を観る限り、結城城御殿より明らかに規模が大きく思われます。
また、鴻巣御殿は明暦3年(1657)の江戸大火の折に解体され、江戸に運ばれ城内の屋敷再建に利用された経過も判り、結城御殿とは別物だった事が確認できました。
鴻巣御殿はその後正式に廃止になり、跡地には東照宮が建ったそうです。

鴻巣御殿跡、鴻巣東照宮跡比定地 御成町という地名がそれを物語っていますね
厳密には東照宮は現在もあります

日本中に東照宮は数多あれど、日本一小さい東照宮が鴻巣の東照宮 確かに小さい^_^;
