茨城の城  小田城   登城日:2018.2.11
 
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 城郭構造   輪郭式平城
 天守構造    なし
 築城主     八田知家
 築城年     鎌倉時代初期
 主城主     小田氏、佐竹氏
 廃年      慶長12年(1602
 遺構        復元土塁、郭、堀、 庭園、井戸
 指定文化財   国指定史跡
 所在地      茨城県つくば市小田
 
 
 小田城は鎌倉時代初期に常陸守護を務めた小田氏の居城です。
近年に復元工事が大々的に行なわれ、本丸を中心に戦国時代の関東の平城の姿が再現されています。
 
 小田氏の始まりは宇都宮氏を起こした宇都宮宗綱の二男であり、旧姓の八田家を継いだ八田知家がその祖となります。
 源頼朝の旗上げに早くから参加していた知家は、その働きから抜群の信頼を得ていて、鎌倉幕府のスタートにあたっては有力御家人の一人として常陸の守護職を得ました。
 
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この城には専用の案内所(資料館)と駐車場が完備されています もう四時半なので見学者は居ませんが…(^-^;
 
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資料は多くはありませんが、城の模型が展示されています もちろん無料ですよ
 
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駐車場の脇に墓石を集めた場所がありました 城址に残っていた小田氏累代の墓石を復元前に此処に寄せたんでしょうね
 
 
 常陸国筑波郡の小田郷に居城築いた知家はその後小田氏を称して、常陸国の支配をはじめます。
 それまで、常陸国の中南部、大掾氏をはじめとする常陸平氏が仕切っており、さらに北部3郡には源氏の佐竹氏が居り、守護職と言えども小田氏の領地は筑波、信太の2郡のみであり、支配は容易ではなかった様です。
 
 やがて頼朝が死に、源氏の嫡流も途絶えて、鎌倉幕府の実権が執権の北条に移ると、常陸の小田領北条一族に簒奪される事が重なり、鎌倉末期には筑波1郡に満たない程に弱体し、守護職が与えられる事も無くなっていました。
 
 
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広い平城だった様ですが、復元されてるのは本丸と2つの小さな出丸ですね 資料館のある外郭はもうかなり市街化されてます
 
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さて、城址に入って行きます
 
 
 それでも小田氏は鎌倉幕府滅亡まで幕府に忠節を尽くしていた為、7代目の治久は窮余の一策として、倒幕運動で流罪になっていた公家の万里小藤房を救出し、彼を奉じて上洛して建武政権に加わり、危うく討滅の難を逃れる事ができました。
 
 続いて訪れた南北朝の争乱では小田氏は南朝側に就き、北畠親房を小田城に迎えて南朝の中心になって佐竹氏などの北朝側と戦いますが、劣勢な南朝側にあっては勢力の挽回もままならず、北朝側の高師冬に小田城が攻撃されると、降伏して北朝に寝返る事となります。
 
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おっと、宇都宮城型の虎口です(^-^; 
 
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本丸内はだだっ広い芝生広場になっていますが
 
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よく見ると遺構の跡が微妙に再現されています 白い砂利敷は池の跡ですね
 
 
 室町中期の関東公方vs上杉氏の争乱では公方の足利持氏方に就き、敗戦でまたまた所領を減らされてしまいます。
 しかし、持氏の子の成氏が鎌倉公方を再興すると、減らされた所領を回復してくれた為、以後は古河公方の与党の一人になります。
 
 しばらく安定したかに見えた小田氏周辺でしたが、佐竹氏の傘下に入った江戸氏の侵攻を受けてまた新たな戦いが始まり、一進一退の苦難の時代を過ごします。
 
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本丸土塁に登りました 穏やかそうに見えますが、この日は冷たい北風が強くて、泣けてくるほど寒い見学でした(-_-;)
 
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筑波山はかなり向こうです 手前の山には採石場が見えます
 
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南の虎口は部分的に石材を使ってあります 関東でも筑波の小田は石材の産地です
 
 
 戦国時代になると小田原北条氏の勢力伸長が顕著になり、古河公方も北条の傀儡となってしまうに至って、周辺の豪族にも北条氏と誼を通じる氏族が出て来ます。
 北西に接する一大勢力:結城氏がまさにそれで、北条氏康の意を得た結城氏は小田領に攻め入り、一時小田城が占拠されてしまう場面もありました。
 
 絶体絶命の小田氏を救ったのは上杉信の関東進攻でした。
謙信の陣に参じた小田氏治は北条氏により失った領地を回復する事が出来ましたが、以前からの敵である佐竹氏も上杉と同盟関係にあり、佐竹氏の南進策が止む事は無かったので、苦しい状況は相変わらずです。
 
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南側馬出し曲輪です
 
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南東角には物見の櫓台があります
 
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この方角から攻めて来るのは…佐竹氏ですね

 

 

 佐竹の脅威の排除に上杉は無力と悟った氏治は思い切って上杉の傘下を離れ北条氏と同盟を結び後ろ盾としました。
 これに衝撃を受けた佐竹氏は攻勢を強めてきて、また謙信も宇都宮氏などに命じて小田城を攻めさせたため、小田氏は幾度となく小田城を放棄して支城に逃れ、城を占拠される事態が続きます。

 

 その都度、敵勢が去った後に守備兵を攻略して奪還した小田氏でしたが、その陰には領民との深い絆が有り、占領軍が領民から徴発すべき年貢は領民の意思により、すべて小田氏の元に運び込まれたそうです。
 
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庭の池が再現されていますが 安全の為、水は張られていませんね
 
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こちらは東曲輪の出丸 移転拒否の民家が1軒残っていますが、胆が座ってれば、今では城主みたいな毎日です(^^)
 
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北東の角には櫓台状の大きな横矢が
 
 
しかし、佐竹氏が大攻勢を掛けた永禄12年(1569)の手這坂の戦いで大敗北を喫すると、もはや再度回復する余力は残っておらず、佐竹氏に降伏した様です。
 その後の小田氏の子孫は結城秀康に仕え、越前で暮らしました。

 

 佐竹氏の城となった小田城には太田資正が城代で入り、のちには佐竹氏の一族:小場義宗が入りましたが、慶長七年(1602に佐竹氏の秋田移封に伴って移転したため、小田城は廃城になりました
 
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北の曲輪への虎口 これが大手か?
 
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堀も水面のイメージで随分浅く復元された安全な城です 城址公園だから、城本来の要件とは相反するモノになってしまいますね(^-^;
 
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ゲートも閉じられ施錠されました。 今夜はつくば市のビジホ泊です。