茨城の城 真壁城 登城日:2018.2.10

城郭構造 輪郭式平城
築城主 真壁長幹
築城年 承安2年(1172)
主な城主 真壁氏、浅野氏
廃城年 江戸時代前期
遺構 土塁、掘割、土居
指定文化財 国の史跡
所在地 茨城県桜川市真壁町古城
真壁城は筑波山から北に延びる、加波山系の足尾山の麓に築かれた輪郭式の平城です。
真壁は律令の昔から、常陸真壁郡の郡司が在住した場所で、真壁郡の中心として栄えた場所でした。
此処に真壁城が築かれたのは平安末期の承安2年(1172)の事で、大掾直幹の子・長幹が真壁郡に入って真壁氏を名乗り、郡家の場所に築城したとされています。

本丸から二ノ丸への東の土橋です

縄張り図を見る限り、かなり立派な城ですが…

大掾(だいじょう)氏は前回の小幡城でも出て来ましたが、平氏の平国香が常陸国大掾となって赴任した事に始まります。
つまり大掾とは律令制度における国司の三等官(カミ・スケ・ジョウの掾)の事で、官名です。
平国香の子孫は将門の乱の鎮圧に大功があり、代々常陸を支配して、官位も常陸大掾を世襲したため、いつしか大掾氏が家名になったと言います。
大掾氏の一族は各郡に分かれて、真壁氏をはじめ吉田・豊田・行方・鹿島・東条・下妻・小栗などの郡名・荘園名を家名にし、中世の常陸はこの氏族が広範に支配していました。

本丸から西の堀へ延びる土塁には神社がありますが 虎口を守る横矢か?

この堀は水堀だった様ですね

史跡碑が二つありました 24年前に国の史跡に指定されたんですね その割に整備が進んでない様に思います
鎌倉幕府の成立には積極的には関与していないものの、志田氏や佐竹氏の反抗に加担しなかったため、鎌倉御家人として組み込まれました。
しかし、頼朝追認であったため有力御家人に列する事は無かった様です。
建武の新政で地頭職を安堵された真壁氏は、南北朝の争乱でも南朝側に付き、北畠親房のもとで活躍していますが、北朝側の攻勢が強まると北朝側に転じて家と領地を守りました。
室町幕府と鎌倉公方の対立の図式の中では「京都扶持衆」と呼ばれる幕府側の鎌倉監視役に選ばれていて、その為に公方の足利持氏軍に再三攻められて、一旦は落城の憂き目にも遭っています。
しかし公方が古河に移って、古河公方VS管領:上杉の図式になると常陸の豪族はこぞって古河公方支持に回り、真壁氏も同調しました。

二ノ丸から東側は整備中で立入禁止になっています

堀の遺構が残っていますが、整備はされていませんね

時代が戦国の様相を増してくると、結城、小田、江戸、佐竹などの大きな国人大名に挟まれた真壁氏は合従連衡のバランス感覚で巧みに世渡りをして行きます。
南北に境を接する結城氏と小田氏が戦った際には結城氏に与して勝利に貢献し、この後は結城色が強くなった様です。
戦国も中期になると、新たに相模北条氏、越後の上杉氏が勢力を延ばしてきて、佐竹氏も南進を始めて、より強大な勢力に囲まれる事態になります。
常陸の国人達がそれぞれに吸収されて行く中で、真壁氏は佐竹氏を後ろ盾とする同盟関係で保身を模索して行きます。
その後の佐竹氏の戦いでは先兵となった真壁氏は、豊臣秀吉の北条征伐でも出陣し、秀吉からは佐竹氏麾下の武将として真壁・筑波領郡に所領を与えられており、いつのまにか佐竹家臣として位置付けられてしまいました。

休工日みたいなので、失礼して残土の山に登ってみました(^-^;

東の山裾まで遺構が広がっているのが判ります 発掘調査も行われている様です

関ヶ原で中立の日和見だった佐竹氏は秋田に減転封されてしまいます。
真壁氏も従って秋田に移るのですが、減俸のため佐竹家中では外様だった真壁氏をはじめとする家臣の同行は大幅に制限され、大半が真壁に置いて行かれたのだそうです。
この行為から『佐竹の殿様は美女だけ選んで連れて行ったから、秋田は美人の里になった。 一方美女がすっかり居なくなった茨城は…』という茨城県人の自虐伝説が生まれたのかも知れませんね^_^;

堀端に土を盛って土塁の復元工事が進んでいます

これだけ土を盛り足すって事は… かなり痩せてたんですね(^-^;
四百年以上に及んだ真壁氏の支配が終わった真壁は、浅野長政に隠居領(5万石)として与えられ、長政の死後は三男の長重が受け継ぎ、真壁藩主となります。
長重は大坂の陣で活躍し、宇都宮吊り天井事件の収拾も担当した功績で笠間藩への加増転封を言い渡されますが、長重が真壁領の領有を強く望んだため領地は据え置いたまま、笠間城下の加増のみ(計53,500石)で笠間城へと移って行きます。(のちの赤穂藩浅野家です)
これを以て真壁城は廃城となりました。

筑波山が近いです
復元できたエリアだけでも開放してくれたら有難いのですが、全部終わらないとダメっぽいですね。 残念ながら今のところ見るべきモノは少ない城址でした。