茨城の城  小幡城  登城日2018.2.10
 
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 城郭構造    連郭式平山城
 天守構造    なし
 築城主      大掾義幹か
 築城年      応永24(1417)
 主改修者  
 主城主    小田氏、大掾氏、江戸氏
 廃年      天正18年1890
 遺構        郭、空堀土塁、土橋、井戸
 指定文化財  町指定史跡
 所在地      茨城県東茨城郡茨城町大字小幡字城ノ内
 
 
次は水戸市の南隣の茨城町まで飛んで、小幡城を訪ねました。
 
 此処は今回が初登城ですが、山城マニアが茨城県でダントツの1位に推す城址で、今回の目的と言っても良いくらい見たくて堪らなかった城です。
 一体がそんなに凄いのか? 中身に入る前に、この城の歴史をザッと紹介しておきます。
 
 
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小幡城遠景 何の変哲もない森ですが、この環境が城址をフリーズしてくれるのです(^^)
あっ、入口に何か工事車両が…
 
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樹木の伐採作業中でした
 
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此処が城址の入口の様ですが、当時は沼に突き出した台地の先端です
 
 
 地域の豪族の支城と考えられ、大きな戦いの記録も無い事から小幡城に関する資料は乏しく、築城年代と築城主は諸説ありますが、応24(1417)大掾詮幹の三男義幹による築城、あるいはそれ以前の鎌倉時代に小田知重の三男光重が築いたという説が有力の様です。
 筑波を本拠とする小田氏がここまで? という疑問はありますが、小田光重はその後小幡光重と改姓していますから難しい所ですね。
 
 室町時代の小幡は水戸城を居城とする大掾氏の支配下にあり、大掾義幹による築城説は自然な気がします。
 しかし上杉禅秀の乱で大掾領は没収されて江戸氏に与えられていますから、城の完成度から見て戦国時代末期まで改修されながら使われた事は明白、江戸氏による作品と見るのが妥当に思えます。
 
 天18(1590)小田原征伐に参陣しなかった江戸氏は改易対象とされ、常陸一国を安堵された佐竹氏の切り取りによって滅ぼされてしまい、小幡城も廃城になったものと思われます。
 
 
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縄張り図の看板がありましたが、台地を堀で遮断した連郭式という事しか判りません
 
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本来の指定駐車場は此処なんですけどね
 
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やっと概要が判る看板がありました ふむふむ…
 
 
 さて、本題の訪問記です。
小幡城の最大のネックはアクセス道路ですね。 
此処も本佐倉城の時の様に、ナビでとんでもない細道を指示されながら辿り着きました。
 
 駐車場は入口の堀底道に停めるという事前情報でしたが、この日は城址の竹の伐採・搬出作業中で、クルマでは入れなかったので、近くの香取神社の空き地に停めさせて貰いました。
 城址の遠景は変哲のない小高い丘とそれを覆う鬱蒼とした森 まぁ、山城とはこんなものです。
 
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堀底道を入って行くと いきなり別れ道 さて、どっちさ行くっぺ?
 
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次もまた複雑な別れ道 迷うなこれは…
 
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土塁が折り重なって横矢だらけ… おまけに先が見通せません
 
 
 伐り出してある孟宗竹のを踏み越えて、虎口から中へ入って行きます。
すぐに目に入るのは堀底道と両側の高い土塁で、比高差は7mはありそう。 
 どんどん入って行くと、堀底道は分岐と合流を繰り返し、先の見通しは郭の土塁に遮られてまったく利きません。
 幸い、要所要所に現在地の地図が掲示してくれてるので迷子にはなりませんでしたが、巨大迷路ですね^_^;
 
 だいぶ奥に来たとおもうのですが、土塁上に登る虎口の遺構がまったく現れません。
平和な現代でも、両側の土塁上からずっと狙われっぱなしの状態…というのは気持ちの良いものではありません^_^;
ひょっとして、堀は水堀だった? まさかね。
 
 しびれを切らして、土塁に生えてる雑木を手掛かりに強引に登攀します。
すると、どうでしょう…土塁だけで郭がなく、またすぐに堀底道になっています(*_*)
なにこれ、騙し構造の一種か? と思いましたが、実は狭い土塁上に陣取って両方の堀底道の敵を狙う事ができる攻撃的な遺構なのです。
 
 
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多大な犠牲を払って土塁をよじ登っても、あれ、郭じゃないやん!
 
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やっと初めて出てきた登り口 煙と一緒で、とにかく登って見ます
 
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櫓台です 此処に井楼櫓が建っていたか?

  

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櫓台から見下ろすと この虎口、枡形になって意外と本格的です 此処から入って橋で本丸に渡ったか?
 
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櫓台の裏の五の郭は、兵糧などを蓄える重要な郭だったと思います
 
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 堀底道に戻ってもうしばらく進むと、やっと正規の虎口らしい登り口が見えて来ました。
『櫓台』となっていて、さっきの土塁の延長にあります。
城のほぼ中心にあるので、此処に物見櫓が建っていたのでしょうね。
背後の郭は五の郭ですが、未整備で藪コギになってしまいます。
 
 また堀底に戻ってしばらく歩くと城外への搦め手口の様な遺構が見えて来ました。
そして反対側は本丸の大手口です。
 しかし、物見櫓の位置からして、此処が大手というのはおかしいので、本当の大手口は五の郭から木橋で繋がっていた…と見るべきですね。
 
 
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前方の土塁が低くなり 明るくなっています
 
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此処は沼に突き出した先端ですから、船で出入りする虎口だった様です    
 
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外郭土塁も武者走りが極端に細くなります
 
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反対側は本丸の入口ですから、やはり船での移動が主だったのかな
 
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 本丸は五つの郭に守られた中心にあり、ひときわ高い土塁が周囲を巻いていますから、これが本丸で間違いないでしょう。
広さも十分ですね。
 
 この後、三の郭、二の郭を見ながら入口へと戻りましたが、いやぁ評判に違わぬ凄さです。
当時のままの手付かずの遺構がこのレベルで見られるとは、奇跡です。
当時に戻ったら、『十年前に廃城になった城です』と言われても納得するかも^_^;

 

 

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本丸は平坦で広いです
 
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周囲の土塁の高さも3~4mはありますね
 
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四の郭はまた守りに特化した凝った造りなのですが、これだけ竹が密生してると何も写りませんね 現地で確認してください
 
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七の郭、つまり大手口の家臣屋敷跡は畑になっていました 願わくば、大手から訪城できる様に整備して頂けると、素人には理解しやすいのですが^_^;
 
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近年名前が知られだして訪問者が増えたので、専用の駐車場を造るのだそうです
 
 
 県外の人は近くに来た際に寄って見る価値は十分ですが、この城を目的にツアーを組んでも絶対に満足できる城址ですね。
 
 この城址が町指定史跡なのは絶対におかしい。
国の史跡でも不思議はないけど、最低でも県が責任を持って管理して行って後世に残してほしいと思います。