茨城の城  結城城  登城日:2018.1.22
 
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 別名       臥牛
 城郭構造   平山
 天守構造   なし
 築城主     結城朝光
 築城年     寿2年(1183年)
 主改修者  水野勝長
 主城主   結城氏、水野氏
 廃年     慶応4年(1868年)
 遺構       空堀、土塁
 指定文化財  なし
 所在地     茨城県結城市結城
 
 
 結城城は小山政光の四男朝光が源頼朝より結城郡の地頭職に補任され、当地に赴任して城を築いたのが始まりと言われます。
 結城氏については、小山氏の回でザッと説明した通りで、宗家の小山氏と一体になって相互に補完しながら、戦国末期まで家名と領地を存続させた氏族です。
 
 一般の認識として、同族の小山氏と結城氏を並べると結城氏の方がより名族…といった潜在意識を感じてしまいます。
 建武の新政に活躍した四名臣(三木一草)のひとり結城親光は同族ながら支族(白河結城氏)で、違う道を歩んでいます。
 
 結城は豊臣秀吉の命により徳川家康の二男:秀康が養子に入り、家名を存続させて後の越前松平家として幕末まで繁栄したからそう思うのかも知れませんが、で、秀吉はなぜ宗家の小山氏ではなく結城氏を選んだのか
 
 
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北条氏の手が加わらなかったので、中世の平城の特徴が濃く残ります
 
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実城の北半分が城址公園として残りますが、他は宅地化されていて、探索は難しい(^-^;
 
 実は結城朝光には“頼朝の落胤説”というのが有り、これが鎌倉幕府内でも公然の事として扱われ、優遇されていたフシがあります。
 頼朝は結城氏の通字として朝の字を与え代々使っていますし、小山氏系なら藤原氏を名乗る所ですが、結城氏は源氏を称しています。
 こうした認識はかなり広くまで浸透し、秀吉や家康の時代まで伝わっていたという事でしょうか。
 
 鎌倉末期、当主の朝祐は足利尊氏に従って上洛し、そのまま倒幕に活躍しました。
 建武の新政では後醍醐天皇から所領安堵された結城氏でしたが、前述の様に支族で奥州白河に居た結城宗広の子の親光が大活躍したので、宗広所領は取り上げられて、南部氏に与える代わりに、後醍醐帝は宗広・親光親子を結城氏の宗家として認め、朝祐に代わって下総の結城領を統治する様に裁定します。
 ずいぶん酷い話ですけど、このオッサンには一介の武士の筋目や都合などどうでも良い小事に過ぎません。
 
 さすがにこれはどちらの結城氏も納得せず、以後の結城氏は後醍醐帝とは距離を置き、足利尊氏に泣き付いて、その傘下として下総、白河で活動して行くのです。
 
 
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実城西側に残る南北の堀跡 殆ど埋め戻されていますね
 
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公園脇にある神社は江戸時代の領主:水野氏を祀るものでした 
 
 
 室町時代中期、足利氏に恩のある結城氏は鎌倉公方:足利持氏と関東管領:山内上杉氏とのゴタゴタでは持氏を支持します。
 
 永12年(1440、永享の乱で鎌倉府が滅ぶと敗死した鎌倉公方:持氏の遺児春王・安王兄弟を保護し、結城城に籠城して幕府に反旗を翻しました。
 
 籠城戦は一あまり続きましたが、嘉吉元年(1441)、結城氏朝・持朝は討ち死にし、結城城も落城、結城氏は一旦滅亡してしまいます。
 
 しかし、公家大名の上杉氏による一元支配は関東の大名には大きな抵抗感があり、彼らの一致した声として鎌倉府の再興を幕府に陳情します。
 
 6年後の文安4年、足利持氏の遺児の成氏が鎌倉公方再興を許されると、佐竹氏の庇護を受けていた氏朝の四男成朝が旧領に戻され、結城氏も再興しました。
 
 
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北側の城外 土塁はあまり高くなく、水堀跡が確認できます
 
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東側の城外 土塁の際まで耕地化されていますが、市街化はされてないのでこちら側は沢沼地だったのでしょうね
 
 
 その後、公方の成氏は享徳の乱を起こして鎌倉を追われ、下総古河に引いて新たな拠点としますが、古河公方が誰よりも頼りにしたのが結城氏と小山氏であり、その構図は戦国末期まで変わりませんでした。
 
 ただ、上杉謙信と北条氏政に影響を受ける中で古河公方家の内部も決して一枚岩ではなく、後継をめぐる争いで結城氏と小山氏の間にはズレが生じ、豊臣秀吉の小田原征伐では小田原城に籠城した小山氏に対し、結城氏は秀吉の陣に馳せ参じました。
 結果から、結城氏には小山氏の領地と小田氏の領地の一部が加増され、徳川領に隣接する形で広大な領地と勢力を構える事となります。
 
 
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 過去の経験値からこの事態を冷静に分析した結城晴朝は、家康の子を自身の後継者として養子に迎えたい旨を秀吉に相談し、秀吉の賛同と家康の了解を得て、豊臣・徳川双方に縁のある次男秀康を養子として迎える事となり、結城氏の将来が保証されました。
晴朝は本当に頭のイイ人ですね。
 
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城下の結城氏の菩提寺:称名寺にやって来ました 古めかしい山門(二条門)があります
 
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ご覧の様に高麗門なので結城城の遺構かと思ったら違う様です 寛永3年の創建で市の文化財だそうです
 
 
 関ヶ原の戦いの4年後、秀康は越前に大幅加増移封となります。
德川一門筆頭の秀康自身は松平を名乗る事になりますが、結城の名跡は秀康の五男の直基が継ぎました(前橋家)。
 
 結城晴朝が没すると直基も松平姓に替えた様ですが、前橋松平家の家紋は松平家に在って唯一、三つ葉葵ではなく最後まで右三つ巴を使用したそうです。
 
 一旦天領となり、廃城とされた結城城の本丸御殿をはじめ主要な建物は武蔵鴻巣の勝願寺に移築されました。
 しばらく経った後、元禄13年(1700)、水野勝長が能登から1万8千石封じられると築城が許され、以後明治維新まで水野氏が10代繋いで明治維新となりました。
 
 
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結城氏の祖:朝光公の墓所です
 
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珍しい形の多重塔ですね。 他にも頼朝の遺髪を埋めた塚もある様ですが、見つけられませんでした。頼朝落胤説は根強いですね^_^;
 
 
結城城埋蔵金伝説
 
その落胤説に関わる伝説として、結城城には埋蔵金伝説があります。
 
 頼朝は文治5年(1189)に奥州に攻め入り藤原氏を滅ぼしますが、平泉で膨大な量の砂金を没収したと言います。
頼朝はその砂金を同行していた“隠し子”の結城朝光に託し、有事に備え保管する様に命じます。
 その砂金は代々受け継がれ、結城城内に秘匿されていましたが、越前への転封の際に結城朝晴は城内の何処かに埋めて行ったのだそうです。
 
 
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城址公園の南側に三日月橋という橋があり、中途半端な堀の跡が残っています
 
この伝説は明治維新後に公に広まり、明治から大正にかけて結城城址では黄金探しの発掘が大規模に行なわれた様です
 
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庭園の池跡?かと思いましたが、これは近代の黄金探しの“夢の跡”だそうです^_^;
 

しかし結局、武具や陶磁器の破片が見つかっただけで、宝探しは終了しました。