茨城の城 古河城 登城日:2018.1.22

城郭構造 平城(平山城)
天守構造 御三階櫓(独立式層塔型3層4階 1633年築 非現存)
築城主 下河辺行平
築城年 平安時代末(1180年頃)
主な改修者 小笠原秀政、松平康長、土井利勝
主な城主 足利成氏(古河公方)、土井利勝 ほか
廃城年 明治6年(1873)
遺構 堀、土塁
指定文化財 乾門(市指定・建造物)他
所在地 茨城県古河市古河
関東の城歩き、最後のローラー作戦は茨城県に入りました。
古河城は平安末期にこの地の領主だった源頼政の郎党で、代官を務めていた下河辺行平が古河の竜崎に築いた城館がその始まりとされています。
行平の父の行義は下野小山氏の祖:小山政光の弟なので、同時期に上野からこの地域に進出してきたものと思われます。
行平は源頼朝に従い、源平合戦でも数々の戦功を挙げたため、晴れて古河の地を賜わり、古河城(立崎城)を拠点に鎌倉幕府御家人として奉公しています。
しかし、行平の子の行時以降の古河は、北条氏の一族の金沢家の領地となっており、政治的に簒奪されたか、北条の有力御家人潰しに連座して取り上げられた可能性があります。
行平は畠山重忠と昵懇だったと言いますから、加勢したのかも知れませんね。
古河城は南北に1.5kmある細長い城だった様ですが、現在は大半が堤防の下ですね
唯一の現存遺構と言われる歴史資料館 諏訪郭という出丸の跡です
武家屋敷もあって、なかなかの雰囲気です![]()
室町時代になると、古河は足利氏の領地となります。
足利氏でも関東公方に赴任した基氏の子孫に与えられた土地で、関東公方の直轄領地は鎌倉周辺とこの古河の周辺でした。
関東公方は古河を中心に栗橋に野田氏、関宿に簗田氏などの直臣を置いて支配していたそうです。
ですから、足利成氏が享徳の乱で鎌倉を追われた後に、この古河を拠点にした理由はそもそも自領だったからですね。

土塁と堀の跡なのが判りますね

江戸時代の遺構だから、堀幅はもっと広かった筈

古河城に入った成氏は、此処を新たな御所にするつもりでしたが、なにせ砦に毛の生えた程度の田舎城だったため、沼でつながった1km程南の鴻巣の台地に仮御所を建てて居館とし、その間に古河城を拡張して御所を造営しました。
この仮御所址は古河総合公園の中に保存されていて、沼の中に浮かぶ浮島の風情が現在でも堪能できます。
鴻巣の居館で過ごしたのは2年程度と言われています。

次に総合公園(古河公方館跡)に来ました 広い公園です


古河城は渡良瀬川東岸に位置していて、船でなければ攻撃できない要地にあります。
背後には古河公方を支援する小山氏、結城氏、小田氏、千葉氏、里見氏などの勢力が控え、それらの拠点とは水運で繋がっていて、攻めにくい絶妙な立地といっていいでしょう。
一度だけ、太田道灌に攻められて落城寸前になり、公方は千葉氏の本佐倉城に避難する場面がありましたが、道灌が兵を引いて事なきを得ています。
後北条氏の下野進攻の際も、和睦開城の形を取っており、秀吉の北条征伐でも “古河城は公方の城で北条の城にあらず”とスルーされましたから、成氏が来てから130年間、一度も落城の憂き目には遭っていないんですよね。

居館の跡は雑木林ですが

四季折々の綺麗な景色が楽しめた事でしょうね

最後の古河公方の足利義氏が死去しても、古河城には娘の氏姫が住み続け、領主の徳川家康も手が出せない状態でした。
氏姫に小弓公方家の国朝を娶わせて喜連川氏を建てた後も氏姫は古河を離れず、鴻巣の館跡を再整備して移動して貰う事でやっと家康は小笠原秀政を入れる事ができました。
氏姫は結局、喜連川には行かず、終生古河に住み続けたそうです。

園内には最後の公方:足利義氏と娘の氏姫の墓もありました


義氏の墓は塚になってるから、土葬だったのでしょうか?
江戸時代の古河城は奥羽の諸侯から江戸を守るコンセプトで北向きに大きく拡張され、譜代で幕閣の重臣達が次々に藩主として封されて、江戸の北辺の要の城となります。
藩主は小笠原家、松平(戸田)家、小笠原家、奥平家、永井家、土井家、堀田家、松平(藤井)家、松平(大河内)家、本多家、 松平(松井)家、土井家と続いて明治になりますが、大老、老中をたくさん輩出しています。
幕末の最期の藩主:土井利与は、早い段階から新政府恭順を決めており、献金なども行っていたため戊辰戦争に巻き込まれる事はありませんでした。

近在の豪農の家も何軒か移築展示していますが…

古河城は廃城令により廃城となりますが、明治末期から始まった渡良瀬川の改修工事により、遺構のほとんどが大規模堤防の下に埋もれてしまい、現在それと判るものは北東の城外に出丸として有った“諏訪郭”が歴史博物館の用地になっており、僅かに面影を留めいています。