栃木の城  鷲城   登城日:2018.1.22
 
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 城郭構造   平城
 築城主     小山義政
 築城年     応安5年(1372)
 主な城主   小山氏 、北条氏?
 廃城年     天正18年(1590)以前
 遺構       櫓台、土塁、堀
 指定文化財  国の史跡(小山氏城跡群として)
 所在地     栃木県小山市外城
 
 
 いよいよ栃木最後の城です。 
鷲城は下野国南部に勢力を持っていた小山氏の居城と考えられています。
 
 小山氏とはこの地域に多い藤原秀郷を祖とする氏族のひとつで、平安末期の政光の代に下野小山に移り小山氏を名乗りました。
 
 源頼朝の旗上げに京に居た政光は三人の息子を参陣させ、地域の平定に戦功を挙げて、源平合戦や奥州藤原氏攻めにも活躍したので、政光下野守護に任じられました。
 政光の後は長男の朝政が継ぎ、弟二人は分家して、二男:宗政が長沼氏を、三男:朝光が結城氏を立ち上げ、下野国最大の勢力となります。
 
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鷲城は小山総合公園の北隣 駐車場には困りません
 
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公園からの城址入り口 搦め手口か
 
 
 鎌倉末期の当主:朝は、元弘の乱の倒幕戦では新田義貞に従って鎌倉に攻め入り、建武新政で下野守護を安堵されました。
 その後の南北朝の争乱では足利氏に従い北朝方にありましたが、分家の結城氏など周辺の勢力が南朝方の中で苦しい戦いを強いられ、奥州から南下して来た北畠顕家の大軍に蹂躙されるなど苦戦続きでしたが、南朝勢が掃討されて行くに従って落ち着き、また南下野での勢力を回復します。
 
 足利氏の内紛“観応の擾乱”が起こると尊氏側についた小山氏に対し周辺の豪族は直義の側に付く者が多く、彼らが旗頭に担いだのは北方で勢力拡大しつつあった宇都宮氏でした
 下野を二分する大勢力の小山氏と宇都宮氏の図式と抗争は、この後も長く続きます。
 
 室町中期、関東公方:足利氏満の策略にはまった小山氏は、宇都宮氏との合戦に引きずり込まれ(小山氏の乱)、停戦命令を無視したとして公方は諸将に小山氏追討を命じて、小山氏の嫡流は滅ぼされてしまいます。
 
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登って行くと明らかに虎口になっていますから、これも遺構ですね
 
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登りきると郭上は広い平坦地 荒地と畑で、公園整備はされてません
 
 
 小山氏に替わって勢力を持ったのが結城氏で、小山領は結城氏に付託され、結城基光は二男の泰朝を入れて新たに小山氏を名乗らせました。
もともと同族ですから、養子で繋いだ様なものですね。
 
 しばらく結城の風下で忍従してた小山氏も、泰朝の孫:持政の代には結城氏に伍するほどに回復し、独自性を追い求め出します。
 永享の乱では鎌倉公方を支援する結城氏とは反対に幕府を支援し、負けた鎌倉公方の子達を結城氏が匿って戦った“結城合戦”でも幕府軍として結城城を攻めて、結城氏に取って代わり南下野を掌握しました
 
 しかし、足利成氏が下向して関東公方が復活すると成氏を積極的に支持したため、享徳の乱では成氏に心中する形で勢力を衰えさせ、嗣子も続かず血脈が絶えてしまいます。
 
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川沿いの崖に近い部分が主郭だったと思われますが…
 
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思川との比高差は15mほどか
 
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神社の裏手あたりには土塁の盛り上がりが視認できます
 
 
 小山氏の当主には結城氏支族の山川氏から成長が入り、家名を繋げました。
 足利政氏と高基の古河公方の跡継ぎ争い(永正の乱)で成長は政氏を支持し、祇園城に迎えましたが、成長の子:政長は足利高基を支持し、政氏と実父の成長ともども追放してしまいます。
しかし、小山政長には嫡子がなく、またもや血脈を絶やしてしまいます。
 
 
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唯一の建物はこの鷲神社 城より古い神社の様で、城名になりました
 
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参道は郭外まで続いています
 
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入り口の鳥居 此処には大きな堀と土塁があった筈ですが、現存しませんね
 

 

 次に小山氏を継いだのは結城政朝の三男:高朝でした。
小山高朝は実兄で結城氏を継いだ政勝と連合を組んで、周辺の勢力との争いに対処して行きますが、政勝が高朝の子:晴朝を養子に迎え、結城氏の後継に据えた事からこの同盟は長続きし、有効に機能します。

 

 その間に南関東では北条氏の勢力が強まり、対処できない扇ガ谷上杉氏は管領の山内上杉氏や古河公方も頼んで武蔵川越で大規模な合戦になります。
 ここで惨敗した上杉勢は間もなく滅亡、あるいは越後へと逃避し、古河公方も北条氏康の娘が産んだ義氏に家督を譲って、北条氏の庇護下に入りました。

 

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城址碑は此処に有るから、本来の入り口という事です
 
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やっと縄張り図がありました 中城と外城の大きな郭が二郭から成る城だった様です
 
 そうなると小山氏はじめ北関東の勢力も北条への対応が求められてきます。
 小山高朝はあくまでも足利晴氏支持でしたが、結城政勝は義氏支持を打ち出した事から、小山結城連合は解散して独自の道を歩む事となりました。
 
 ピンチに陥った小山氏でしたが、それを救ったのが上杉謙信の関東進攻でした。
 関東管領を継いだ謙信が関東の諸豪族に檄を飛ばし、北条征伐を打ち出すと、小山氏もこれに馳せ参じていますが、結城氏は応じませんでした。

 

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外城は完全に市街地になってるので、間の大堀切に沿って公園に戻ります
 
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右側の道を下りて来ました 中城の土塁の高さが凄い(左側)
 
 
 ホッと一息の小山氏でしたが、上杉勢が越後へ戻るとまた北条氏の攻勢が始まります。
 まだこの時期の北条氏は南関東の平定段階だったので、小山氏は衣替えみたいに夏と冬で二枚舌を使い、なんとか難を逃れていました。
 
 ところが、武田信玄への対応で一致した北条氏と上杉氏は同盟を結んでしまい、戦力に余裕のできた北条氏は北条氏照が率いる大軍を投入しての北関東進攻を始めます。
 古河、関宿などの堅城が落とされ、ついに天正3年(1575)には小山領に侵攻して来ました。
 
 防戦むなしく祇園城を落とされると小山秀綱は佐竹氏を頼って常陸に逃亡し、これで400年続いた小山氏は滅亡してしまいます。
 
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公園への出口にある虎口 右手の土塁は二重土塁になっています
 
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外側の土塁は 戦国末期に補強に足したものかも知れませんね
 

 

 北条氏照は祇園城に入ってその後の進攻の拠点とし、小山秀綱にはその配下になる条件で帰城が認められたそうです。
 しかし、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると小山領は結城晴朝に与えられ、秀綱は晴朝に従うことになりました。
 
 秀綱は小山氏再興を嘆願し続けたもの果たせず、失意のうちに没し、子孫は水戸徳川家の家臣に取り立てられて繋がって行きました。
 

 


 小山城といえば、祇園城を指すのが一般的だと思います。
小山氏が滅んだ時の居城で、北条氏が北関東攻めの拠点として整備し、本多正純の小山藩の居城だから当たり前なのですが、小山氏400年の治世では祇園城が居城であったのは後半の200年です。
 
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 今回訪ねた鷲城はその前の居城と言われていますが、その期間は100年足らずだったと思います。
どちらも“国の史跡”に指定されていますが、その名目は『小山氏城跡群』となっています。
つまり、複数の城があって、それらの城を拠点としながら400年の歴史を紡いで来た…という事なんでしょうね。
 では、他にはどんな城があったのか? 最期に簡単に紹介しておきます。
 
 
『曲輪跡』
 上野から小山にやって来た小山氏の最初の居館跡と言われています。
現在は一条の土塁跡が50mばかり残るのみですが、小山氏も足利氏の様な居館からスタートしたのですね。
 
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新幹線と東北本線の線路脇にある館跡の遺構 2mほどの土塁が少し残っています
 
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土塁の下に僅かに遺る掘の痕跡 西側に掘という事は西側土塁の一部ですね
 
『中久喜城』
 小山市の東端、つまり結城市との境にあるこの城は勢力を東に拡大して行く為の拠点になった城と思われます。
結城城との中間にあって、結城氏も使った記録があるそうです。
 
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中久喜城遠景 低い台地の先端ですね
 
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国の史跡ながら、殆ど整備はされてなく、原野ですね
 
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土塁上のこの祠周りだけに人の気配があります
 
 
『長福城』
 鷲城の北方2km、祇園城との中間にあるこの城は使われ方がよく判っていません。
ただ規模はそう大きくないし、北方への支城として築かれた後、その機能が早くに新たな祇園城へと移って行った気がします。
 
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城址碑は小さな公園にありましたが、中心部は市街地になっています
 
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南側虎口と思われる場所?
 
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河原から見るとこんな感じですね ちょっと低いか…
 
 
『祇園城』
 最後に祇園城です。
南北朝の争乱の頃から居城となった様ですが、北条氏に占拠されるまでは鷲城ほどの規模は無かった様です。
この城を大きく改造したのは北条氏照で、ほぼそのまま江戸時代に受け継がれた様です。
 
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こちらは市役所に隣接するだけあって、綺麗に整備されています
 
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直線的な堀切は氏照がよく使う技法です
 
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川に面した部分は手付かず(^-^;
 
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