栃木の城 桜町陣屋  登城日2018.1.21
 
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 城郭構造   単郭平城(陣屋)
 開設主     宇津教信
 開設年     元禄12年(1699)
 廃止年     明治元年(1868)
 遺構       土塁、復元館
 指定文化財  国指定史跡
 所在地     栃木県真岡市物井2013-2
 
 
 茂木から小山へ向かう途中、真岡市にある桜町陣屋に寄って行きます。
日頃城を見て歩くのに、陣屋を訪ねるのは本当に稀なのですが、この陣屋は旗本陣屋ながら国の史跡に指定されている陣屋なので、現地に立って当時に思いを馳せてみたいと思います。
 
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復元された陣屋を中心に、神社、資料館、駐車場など 公園整備がなされています
 
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陣屋は低い土塁で囲まれていた様ですね 堀はありません
 
 
 桜町陣屋は小田原藩主:大久保忠朝が三男:教信に下野芳賀郡の領地4千石を分地した際に、教信の領地内陣屋として開設されました。
  教信は新たに宇津氏を名乗り、将軍家の旗本になります。
桜町陣屋には家臣の代官が赴任して、治めたものと思われます。
 
   しかし、この土地は水利の便が悪く、水持ちも悪い地質だった為に、干ばつになると何も採れなくなって農民の逃散が相次ぎ、当初は4千石あった石高も百年後には千石も採れない土地になっていました。
 
 当然、宇津家の家計は成り立たず、実家の大久保家と妻の実家の上杉家が補填して維持する状態が続いたと言います。
 
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虎口(門)は喰い違いにしてありますが、戦時は想定してないのは一目瞭然
 
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敷地全体がこの高さの土塁で囲まれています 桜の木は古いけど、明治になってから植えたものでしょう
 
 
   幕末も近い文政6年(1823)、分家の宇津家領の復興を決意した小田原藩主:大久保忠真は、藩内の有識者を桜町陣屋に送り込み、荒れた農地の復興と宇津家の財政再建を指示します。
その有識者が二宮尊徳(たかのり)でした。
 
 尊徳は家族ぐるみで下野に赴任すると、間もなく宇津家家臣の代官を帰任させ、自ら代官となって様々な困難と立ち向かい奮闘する事7年、宇津家領の実高を3千石まで回復させ、宇津家の財政も立て直す事に成功しました。
 
 この実績は近隣でも評判となり、常陸真壁の旗本:川副家、同じく常陸下館の川村家、伊豆韮山の江川家などの依頼で所領復興を救けます。
   また、小田原藩内でも“天保飢饉対策”を請け負い、下野真岡領の復興には家族で移住して尽力しました。
桜町陣屋での在住は21年間だった訳ですね。
 
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陣屋の建物は主殿(母屋)だけが復元されていますが、茅葺で思いの外こじんまりして、庄屋さんの家風です
 
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館前に井戸がありますが、『跳ねつるべ』の形式は珍しい
 
 
 そうなると名声は幕府まで聞こえ、天保13年(1842)には幕府の依頼で印旛沼開拓・利根川利水の企画立案に携わり、次いで天領の下総大生郷村の復興を指図し、そして最後には弘化元年(1844)、日光寺社領の復興をも委託され、それを推進途上の安政3年(1856)、病を得て日光今市の役所にて69歳で没しました。
 
 この桜町陣屋のある場所は真岡市ですが、近年に合併する前は“二宮町”でした。 もちろん、尊徳の功績にちなんだ命名です。
 
 
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いわゆる、お白洲。 領内の犯罪や訴訟に関わる決裁が行なわれた場所ですね
 
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代官は この奥の間から判決を言い渡した様です    
 
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こちらは玄関の式台ですね 全てが想像以上にコンパクトです
 
 
 ところで、この二宮尊徳という人、なぜそんなに卓抜した能力を備えていたのでしょうか
徳は幼名を金次郎と言い、相模国足柄上郡栢山村の比較的富裕な農家の長男でした。
 
 しかし少年期の金次郎を度重なる不幸が襲います。
5歳のとき、折からの暴風雨で酒匂川が決壊し、田畑の全てを失ってしまいます。
 大きな借財を抱えて無理が祟った父母は相次いで死んでしまい、家族の生活はひとえ15歳の金次郎に掛かって来ます。
 しかし決してめげなかった金次郎は昼は土木工事の人夫として働き、夜は草鞋を編んで売りました
 
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こちらは玄関脇の土間です 米俵は置いてあるものの、竈や水瓶など生活の匂いはしません
 
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全部で26坪の建物です。 土間脇の板間は尊徳と家族の日常の生活場所と説明されてますが、別棟があったんでしょうね。
 
 
 米は近所の農家で余った苗を貰い集めては沼や水路に植えて、食い扶持を確保したと言います。
 生活は至って質素にし、そうやって少しずつ貯めた金で借財の為に売った田畑を少しずつ買戻し、20歳の時には実家を再興しました。
 
 名乗りを尊徳(たかのり)と改めた金次郎は其の後も勢いを止めず、蓄えで土地をどんどん買い増しては小作人を入れて地主になって行きます。
次には小田原の城下に出て、藩士の家の財務を手伝う様になり、遂には評判を聞いた家老の家の財政再建にも成功し、尊徳の名声は一気に高まりました。
 
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陣屋内にある田畑 家族の食い扶持を自分で…という事ではなく、農家と同様に作物を育てる事で、作柄を観察してたんでしょうね
 
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陣屋の脇にある二宮尊徳神社 本当に神と祀られるに相応しい人間だと思います
 
 
 農民の尊徳が大久保家の分家宇津家領復興役に抜擢されたのには、自らの前半生から来るこんな背景があったのですね。
 しかし、真面目に働き蓄える一方で質素倹約の生活は変えない尊徳は、この頃に結婚するも、新妻にはこん家の家風は私には合いもはんと、三行半を突き付けられ、離縁されています^_^;
 
 尊徳ももう35歳でしたが、翌年には従順な16歳の後妻を貰うので、まぁ良かったのかも知れません。
(さらなる詳細を知りたい方は、Wikipediaでも詳しく書かれています)
 
 
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短い神社の参道入り口には資料館があります
 
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資料館の拝観は無料です 展示品は書き物が多くなっていますが、人間としてとても価値のある資料館です
 
 桜町陣屋跡には尊徳資料館があり、様々な資料が詳しく展示されていますが、中でも現代に通じる遺訓があったので紹介します。
 
尊徳の行動規範は以下の六つから成っています。
 
【至誠】   至誠とは真心であり、我が人生は至誠と実行のみであった
 
【分度】   自分の置かれた分をわきまえ、それに見合った範囲で生活する
 
【積小為大】 大きな成功はすべて小さな努力の積み重ねに過ぎない、小事を疎かにすると
                  成功は無い
 
【勤労】   人は糧を得る為だけに働くのではなく、自己を磨き成長させる為に働くの
 
【推譲】   余分な糧は子孫の為に蓄え、さらに困窮する他人に譲る事で人間らしい幸福感
                 を得られる
 
【一円融合】 すべてのモノはお互いに作用し合い、一体となって初めて良い結果が生まれる
 
さらにまとめ的に
 
万象具徳】 すべてのモノや人には良い所(徳)がある、その徳を上手く組み合わせて社会
                  に貢献して行くのが報徳である
 
と、結んでいます。
 
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軍国主義の象徴みたいに言われ、最近は見なくなりましたが、実はまったく逆の平和主義者でした

 

 
 尊徳のこうした考え方と行動は、子供の人格形成に有益であるとして、戦前の全国の小学校には二宮尊徳の像が立っていましたが、戦後になると一転して、個性の画一化、思想の強要につながるとして有害とされてしまいます。
 
 それでも多くの日本人は漠然とこれを“正しい事”と認識していて、バブル期を頂点とする過程では相当に頑張って働き、その結果、日本人は類まれな高い民度を持つ国民として認知され“Made in Japan”の揺るぎない信頼を勝ち取りました。
 
 しかし1990年のバブル崩壊を経て、日本のGDP1.3倍にしか成長していません。
新興国は別にして、当時からの先進国も軒並み2~3倍に増える中での事です。
 
   こんな今だからこそ、もう一度原点に戻り、二宮尊徳に教えてもらう事は少なくないと思うのですが
 
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二宮尊徳は182cm84kgだったそうです。当時としては傑出した大男です。