栃木の城 喜連川城 登城日:2018.1.21

別名 倉ヶ崎城、蔵ヶ崎城、喜連川陣屋
城郭構造 山城
築城主 塩谷惟広
築城年 文治2年(1186)
主な城主 塩谷氏、足利氏
廃城年 明治3年(1870)
遺構 郭、土塁、空堀
指定文化財 市指定史跡
所在地 栃木県さくら市喜連川
次は飛山城から20kmあまり北上します。
喜連川城は平安末期、塩谷五郎維広により築城されました。

市役所支所(旧喜連川町役場)の駐車場にクルマを停めると、そこはもう城址の下でした

登城路の入り口です “お丸山”は愛称?

クルマが通れる道幅だから、当時のモノではないですね
惟広は源平合戦(治承・寿永の乱)において源氏側で参戦し、一ノ谷や屋島で戦功があり、塩谷氏の所領であった塩谷荘のうち現在の喜連川付近三千町の領地を貰いました。
一族の中での褒賞という事ですね。
惟広は文治2年に蔵ヶ崎城を築き、また土地の名を喜連川(きつれがわ)と改めました。
この喜連川塩谷氏は分家となり、宗家の塩谷氏は北の矢板を本拠にしていました。
*仮名手本忠臣蔵に出てくる、美人妻をもつ塩谷判官は別の氏族(京極系)です。

山上に着きました 台地の先端は重要な場所なので、遺構があると睨んでましたが… ありませんね

比高差が30mくらいあるので、城下はよく見渡せます

郭の上端には櫓台状の土塁があります
喜連川塩谷氏の血筋は4代で絶えてしまいますが、宇都宮氏から当主:頼綱の弟の朝業を養子に迎えて、塩谷氏の支配は都合17代400年にも及びました。
戦国時代になると、宇都宮氏と北方の那須氏の戦いが激しくなり、間に挟まれた塩谷氏は双方への離反と帰参を繰り返して、何とか生き延びます。
しかし、17代の惟久が豊臣秀吉の小田原陣に参陣しなかった為、宇都宮仕置きで改易されてしまいます。

櫓台の後ろは大きな堀切になっていて、橋で次の郭へと続いて行きます

次の郭も緩傾斜で、上端は土塁状になり…

そして大堀切で仕切られ、次の郭が見えています。
どうやら、二本の大堀切で仕切られた三つの郭が連郭で並ぶ城だった様ですね。
そうすると、一番高い次の郭が本丸か? 広く平坦だし、展望塔もあります
塩谷氏は、以後は佐竹氏家臣で生きて行きますが、惟久の妻は秀吉に見初められて側室になっていますから、やはり塩谷=美人妻ですね(^-^;
代償として惟久を佐竹義宣に押し付けて、武士として生きる道(佐竹氏の家老)を与えた…という事でしょうか。

こっちの堀は一旦底に降りて、また登って行きますが…

ありゃ、通行止め(*_*) いや、これは判ってた事で、この先は2011年の大震災以来立入禁止になっていて、展望塔も休業中なんです。
残念ながら、本丸跡は確認できませんでした。
塩谷氏の後の喜連川には、なんと足利氏が入って来ます。
秀吉が天下統一した時点の足利氏といえば、室町将軍家の血脈は絶えていて、関東公方の末裔が僅かに命脈を保っているだけでした。
武家の棟梁=足利氏という認識が残るこの時代、その系統を掌中で庇護する事は、新たな天下人にとって大事な事だったのでしょうね。

城下に降りて、旧街道を歩いてみます。 奥州街道で、喜連川は宿場町でもありました

神社には大きな樫の木 雰囲気が残っていますね


関東公方は戦国末期には古河公方家と小弓公方家に分裂し、互いに対立していましたが、秀吉は男子の絶えた古河公方家の氏姫と小弓公方家の足利頼純の子:国朝とを娶せ、喜連川3500石を与えます。
しかし国朝と氏姫の夫婦仲は最悪で、同居もしない状態だったそうですが、その国朝は朝鮮の陣中で病没してしまい、弟の頼氏が跡を継いで氏姫と再婚という運びになると、この夫婦は気が合った様で、後世へ子孫を繋げる事ができました。
頼氏は徳川家康から千石を加増され、家名も喜連川氏と改めて、新たに喜連川藩を立藩します。

と、街道沿いに突然現れる渡り櫓門! 柱の二疋両の家紋は足利家です

これは近年に造られた門で、この下を車でそのまま入れます

門の内側はというと、駐車場になっていて、最初にクルマを停めた場所ですね
ここが喜連川陣屋の跡地なのです(^-^;
4500石で高家旗本ではなく大名とは意外な気がしますが、なにせ足利家ですから、家康にとって本家筋の家柄です。
石高は僅かでも、その待遇は“10万石格”とされ、さらに徳川家の家臣ではない“客分”だった為に、参勤交代をはじめ大名の義務は課されませんでした。
公式な官位は無位無官でしたが、通称として関東公方の官位であった左馬頭や佐兵衛督が使われ、諸大名へは“御所様”と呼び尊ぶ事が義務付けられたそうです。

街道が城下を抜けた北のはずれ、内川に架かる橋
喜連川の御所様は大名行列が近付くと此処に来て釣り糸を垂れ、さりげなく出迎えたのだそうです(^-^;
頼氏は山城である喜連川城は放棄して、城山の麓の奥州街道沿いに陣屋を建て藩庁としましたが、石高からもそうせざるを得なかったのでしょうね。
当然ながら喜連川氏は、改易・転封の対象外で、幕末までこの地で繁栄しました。